『篆隷万象名義』(てんれいばんしょうめいぎ[注 1])は、9世紀前半に空海によって書かれた、現存最古の日本製字書である。
概要
『篆隷万象名義』は16000字弱の掲出字を542の部首で分類して掲出している[注 2]。巻1の冒頭に「東大寺沙門大僧都空海撰」と記してあることから、空海の撰と考えられる[注 3]。
高山寺蔵本は永久2年(1114年)に書写され、6帖からなる。古い写本として現存する唯一のもので[注 4]、他の写本は江戸時代以降に高山寺蔵本を写したものである[注 5]。なお、高山寺蔵本は国宝に指定されている。
前後の区分と後半部分の撰者
高山寺蔵本は冒頭の部首一覧で30巻に分けられており、最終帖も巻30で終わるため、一般に30巻と数えられる[注 6]。しかし、第1-4帖の範囲は部首一覧の分巻に従わず巻1-50に分かれており[注 7]、第5-6帖は巻15下-30に分かれている。この違いから、第1-4帖を前半、第5-6帖を後半と区別することが多い。
『篆隷万象名義』が幕末に知られるようになった後、当初は全体が空海撰と考えられてきたが、分巻の違い[注 8]、第5帖冒頭にある「續撰惹曩三佛陁」[注 9]、反切用字の異なり上田 (1970)などから、現在では第1-4帖と第5-6帖は撰者が異なると考えられている[注 10][注 11]。
掲出の体例
各字は、まず上段に篆書を出し[注 12]、下に通常の楷書の文字、反切による音注[注 13]と簡単な義注を示す。ただし篆書が書いてある箇所は一部にすぎない[注 14]。また、比較可能な範囲では、文字の配列は顧野王『玉篇』そのままで[注 15]、音義も『玉篇』のものを節略したものとして説明できる(かつては独自の説明もあるとされた[注 16])。現在では「『篆隷万象名義』の音義には独自の点はほとんどない」と考えられている[注 17]。もともとの玉篇は大量の引用と「野王案」として著者の意見を述べている箇所があったが、『篆隷万象名義』ではこれらは省略されている。
評価
上海図書館蔵『篆隸萬象名義』
『篆隷万象名義』は幕末から写本が出回って学者間に知られるようになった。
清末に中国で失われたが日本に存在する古書を収集した楊守敬がこれらの『篆隷万象名義』写本も購入してその内容について記し、中国でもその重要性が知られるようになった。
前述のように、日本独自の点は少ないが、原本『玉篇』が失われて現存しないため、『篆隷万象名義』は原本『玉篇』が本来どのような内容だったかを知るための貴重な資料となっている。
『篆隷万象名義』の反切は原本『玉篇』の反切と基本的に一致すると考えられるため、河野 (1937)や周 (1936)はこの反切を使って6世紀中頃の南朝の標準的な読書音を復元した[注 18]。
また、漢字字形資料としても貴重である。
脚注
注釈
- ^ 「名義」の読みは「みょうぎ」とも。国指定文化財等データベースに登録されている国宝名のふりがなは「てんれいばんしょうみょうぎ」である。
- ^ 『篆隷万象名義』においては、独立した音注・義注を備え、一般の字書であれば見出し字として立てるべき掲出字が、割注の中に書かれている状況がしばしば見える。また、掲出字の異体字を注文の中で示す場合も多いが、その異体字が別部首で見出し字として掲出されることも多く、重複の取り扱いによっても掲出字数は異なる。李による調査では、先行研究が数える掲出字数には15657~16917字の開きがあった。
- ^ 河野は、本字と注文の混乱や注の採録方針の不統一の多さなどから空海は仮託されたものと疑った。
- ^ 高山寺蔵本の冒頭の部首一覧の中には「イ本」との異同(主に部首字の楷書字形の違い)を記した部分があり、川瀬は複数の写本が存在した可能性を指摘した。しかし、この部首一覧の反切は本編が示す反切と符合しないことがしばしばあり、『篆隷万象名義』とは別のものから作られた可能性も疑われる。
- ^ 多くは江戸末期に屋代弘賢が書写したものから模写された。
- ^ 過去の目録は30巻と扱う。日本国見在書目録には31巻とあるが、白藤は部首一覧が加わった数と推測している。
- ^ 第4帖 巻第50の末尾には「巻十五之上」とある(崇文叢書本の第4帖末尾)。ただしその前方に巻15上の始まりを示す箇所はない(崇文叢書本の麥部冒頭)。
- ^ 岡井はもともと100巻を想定した撰述が中断した可能性を指摘した。一方、川瀬は玉篇に従って当初から30巻であった筈と考え、前半の分巻が異なる理由は、後人の所為であって全体を空海の撰述と主張したが、のちに白藤は高山寺蔵本には50巻に分かれた時期が無いと説明が困難な脱落や転倒があることを指摘した。
- ^ 崇文叢書本の第15下冒頭。解釈に関しては高田 (1995)を参照。
- ^ 上田 (1970)は第5帖、第6帖の撰述方針にも違いが見えることを指摘する。
- ^ 宮澤は、図書寮本『類聚名義抄』が『篆隷万象名義』を引くにあたり第1~4帖部分は「弘」として引用するのに対し、第5~6帖部分は「玉」として引用しており、古くは区別されていたことを指摘した。
- ^ 『篆隷万象名義』の篆書体は北宋以来の大徐本説文解字に見える玉箸体ではなく、唐写本説文解字木部残巻などに見える懸針体に近い。また、単なる書体の違いではなく、徐鍇・徐鉉による校訂以前の文字構造を残している可能性がある。ただし、空海の入唐(803年)は、説文の篆書を玉箸体に改めた李陽冰の没後と考えられることは注意が必要である。
- ^ 一部、直音となっている箇所もあるが、上田 (1970)では底本となった玉篇の直音と考える。
- ^ 白藤は1035字、全体の約6%と数える。
- ^ これは撰者が意図的に改めた形跡が無いという意味で、実際には誤写によると思われる脱落や重出、転倒が見られる。
- ^ 山田は玉篇残巻に見えない義注を空海の増注と考えたが、後に貞苅は増注とされるものが巻9残巻部分に限られ、増注とされた内容は『新撰字鏡』が引く玉篇にも見えること、さらに巻9残巻とは反切も異なりが多いのに対し、巻27残巻とは反切は全く同じであることから、玉篇の各残巻に時代差があることを踏まえ、『篆隷万象名義』に増注があるのではなく巻9残巻のほうに脱落があると考えた。
- ^ 白藤は「㑜」に和訓「ヘク ヒユ」が見えることを指摘するが、撰者によるものではなく伝写の際に混入したと考えている(「㑜」の掲出頁)。解釈については池田 (2021)を参照。
- ^ 貞苅 (1957)、上田 (1970)が指摘するように、現存する原本玉篇残巻と反切が完全に一致するわけではないが、ある時点での原本玉篇の音注の大半を残す資料としては依然として『篆隷万象名義』が最も有益な資料である。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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