糠部郡糠部郡(ぬかのぶぐん)とは、かつて陸奥国にあった郡。現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていた。 由来1407年(応永14年)の『三国伝記』では、あるとき女が難蔵に向かって言うことには「この言両(ことわけ)の嶺の西三里に、奴可の嶺という所に池があり、その池に八頭の大蛇がいる。私を妻として1月のうち上旬の15日は奴可の池に住んで、下旬の15日はこの池に住んでいるので、今はちょうど来る時期です。心してください」という記述がある。これが、南祖坊と八郎太郎が初めて登場するくだりである(三湖伝説)。菅江真澄は『とわだのうみ』や『いはてのやま』で、この奴可が、八甲田山東部の郡の古名、糠部郡の由来になり、のちに音読され八甲田山が糠檀(こうだ)の岳に変わったとした。これより先に、元禄のはじめに南部藩に逗留した京都の医師の松井道圓の作とされる『吾妻むかし物語』でも、この説は言及されており、菅江真澄は南部藩周遊中にこの本を読んだ可能性がある。 歴史かつて奥六郡の北には郡は置かれなかったが、延久蝦夷合戦の結果、糠部郡、鹿角郡、比内郡、平賀郡、田舎郡、鼻和郡が建郡された。建郡の時期は文献がないため不明だが、清原真衡の時代という説と藤原清衡の時代(奥州藤原氏)という説がある[1]。 文治5年(1189年)藤原泰衡が滅びると奥州は源頼朝の支配下に入り、関東御家人への恩給が行われたが、糠部郡に関する記録はない。 当郡の支配関係が記録に見えるのは、寛元4年(1246年)北条時頼が「陸奥国糠部五戸」の地頭代職に左衛門尉平(三浦)盛時を補任したことが初めてである。 糠部郡内の地頭・地頭代職の伝領[2]
元弘4年(建武元年 1334年)陸奧国府の北畠顕家は南部師行に対して信濃前司入道(二階堂行珍)の代官を久慈郡に入部させよと命じており、平泉藤原氏の時期から、現在の久慈市域(九戸郡の一部)とほぼ一致する郡域が古代、閉伊郡から分離独立したものとみられ、鎌倉末期には糠部、岩手、久慈、津軽四郡など北条氏所領群の一角をなしていたと推定される。 寛永11年(1634年)糠部郡は、北郡、二戸郡、三戸郡、九戸郡に分割された。 九ヵ部四門の制糠部郡には、「九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)」の制がしかれていた。 糠部郡を一から九までの「戸」(あるいは部)にわけ、一戸ごとに七ヶ村を所属させ、余った四方の辺地を東門、西門、南門、北門と呼んだと思われる。 一説には南部氏の領地になった順番とも言われるが、四門九戸の制がしかれた時期が鎌倉期以前ともされているので、必ずしも事実とは思われない。 他に、南門が一戸・二戸、西門が三戸・四戸・五戸、北門が六戸・七戸、東門が八戸・九戸を差すとする説もある。 「戸」とは「牧場」の意であるとも言われる。 戸制が施行された地域は「糠部の駿馬(ぬかのぶのしゅんめ)」といわれた名馬の産地で、馬がどの「戸」の産かを示す「戸立(へだち)」という言葉も生まれるほど珍重され、源頼朝が後白河院に馬を献上した際、後白河院が「戸立」に非常に興味を示したと『吾妻鏡』にある[1]。 四戸を除き、一戸から九戸は現在でも行政地名として現存し、一戸町、二戸市、九戸村が岩手県に立地し、三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、八戸市は青森県に立地しており、北門は現在の上北郡、下北郡にその名を留めている。 「戸」(へ)のつく現存地名
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia