聚楽廻
聚楽廻(じゅらくまわり)は、京都市中京区の地名。 近世から近代にかけての村名・大字名として用いられ、 現在では、公称町名に「聚楽廻」を冠する地域を指す。 概要豊臣秀吉が造営した聚楽第旧地の南西部、二条城の西側にあたる。 集落が形成されたのは、江戸時代中期以降である。上京に飛地の洛外町続町を有した。 明治22年(1889年)に朱雀野村の大字となり、大正7年(1918年)に京都市下京区(当時)に編入された。 現在は、京都市中京区北西部に位置し、聚楽廻を冠する5つの町で構成され、京都市内の地域自治の単位である元学区(学区)[注釈 1]では、朱雀第二学区と朱雀第六学区にまたがって位置する。 歴史平安時代から安土桃山時代この地域は、南の一部分を除き平安京では大内裏(平安宮)に含まれ、大極殿を含む朝堂院の西半分と、その西側に豊楽院、また造酒司および典薬寮の一部が位置した[2][3]。 大内裏は、幾度の火災の被害を受け、そのたびに再建されたが、豊楽院は康平6年(1063年)[4]、朝堂院は平安時代末期の安元3年(1177年)の安元の大火により焼失して以降は再建されず、承久元年(1219年)に内裏を含めた大内裏が焼失。その再建途上の安貞元年(1227年)の火災以降再建されず放棄され[5]、その後大内裏は内野(うちの)と呼ばれる荒地となった[4]。 この内野の地の北東部に、豊臣秀吉が聚楽第を建造したが、文禄4年(1595年)破却した[6]。なお、現在の聚楽廻の地域は、聚楽第の範囲から南西に外れている。 江戸時代から京都市編入→「朱雀野村 § 聚楽廻」も参照
現在の地域名である聚楽廻(聚楽廻り)の名称は、近世から村名として用いられた。 江戸時代初期には、南東側で接していた三条台村(二条御城廻)と共に、町に住む農民の出作地であり[7]、集落が形成されたのは中期以降であるとされ、以降も農民の居住地や農地は市街にも散在していた[2]。また、二条城周辺には幕府関係の施設が立地したが、聚楽廻においても、京都所司代の与力・同心屋敷が千本通西、太子道(旧二条通)北(現在の聚楽廻東町、西町、中町付近)に置かれていた[8]。 現在上京区にある三助町・鳳瑞町・利生町は、同村の飛地で町場化した洛外町続町であり[8]、明治元年(1868年)7月に上京に編入され、明治2年(1869年)の第二次町組改正で上京第8・9番組(のちの仁和学区)に編入されている[9]。 また、同村の南東側に位置した三条台村(二条御城廻)は、明治8年に西ノ京村に編入されている[10][注釈 2]。 明治9年(1876年)に郡区境界改正が行われ、市街に散在していた地域を市中に編入、また市街から編入した地域もでき、改めて聚楽廻と名称が定まった[2]。 明治22年(1889年)に、西ノ京村、壬生村と合併し、朱雀野村の大字となった[11]。 京都市編入以降大正7年(1918年)に、朱雀野村が西院村の一部と共に京都市下京区(当時)に編入され、編入された区域は下京第34学区となり、大字聚楽廻は同学区内で聚楽廻を冠する5つの町となった[12]。 下京第34学区は、昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され[13]、上京区・下京区から、左京区・中京区・東山区が分区されると、朱雀学区となり、中京区に属した。 朱雀学区には、昭和12年(1937年)までに朱雀第一から第八までの8つの小学校が置かれ、昭和16年(1941年)の国民学校令により、国民学校の通学区域を単位として設置された町内会連合会[14]がもとになって、戦後朱雀第一から第八までの元学区となった。(中京区役所関連の資料では、この昭和16年に朱雀学区が8つに分かれたとしている[注釈 3]。) 公称町名に聚楽廻を冠する地域は、元学区では朱雀第二学区と朱雀第六学区にまたがって位置する[15]。 地理現在、聚楽廻地域(公称町名に「聚楽廻」を冠する地域)は、京都市中京区の北西部に位置し、範囲は、北は出水通下る、南は押小路通上る、東はおおむね千本通、西は下ノ森通である。千本通と丸太町通が交通の主要軸となっており、かつては市電が敷設されていた。 聚楽廻地域の北側は上京区、南側は中京区西ノ京地域(公称町名に「西ノ京」を冠する地域)に接している。地域自治の区分である元学区(学区)では、聚楽廻松下町、聚楽廻中町、聚楽廻東町と、聚楽廻西町の一部(JR山陰本線以北)が朱雀第二学区であり、聚楽廻南町と、聚楽廻西町の一部(JR山陰本線以南)が朱雀第六学区に位置する[16]。いずれの元学区(学区)でも聚楽廻を冠する町は、その一部となっており、学区内の小学校は聚楽廻地域の外に位置する。 ![]() ![]() ![]() 聚楽廻地域の町名
近世の聚楽廻の洛外町続き町以下の3町は、近世に上京の町場に形成され、葛野郡聚楽廻(聚楽村)に属した洛外町続町に由来するため、ここで説明する。 その他聚楽廻南町から千本通の東向いに位置する上京区の聚楽町(じゅらくちょう)は、近世は京都所司代の御鉄砲方・御米蔵手代などの役宅と町家が入り組んだ市街の西限であり、幕末前の絵図・地誌等には町名が見えず、『京都坊目誌』では明治3年に民有地となり、明治8年に同町名になったとあるが、明治2年の上京第14番組のなかに同町名の記録がある[22]。上京第14番組に属し、現在は出水学区に位置する。 町の南には、出世稲荷神社があったが、2012年移転。京都市営バスなどの停留所名も「出世稲荷前」から、「千本旧二条」に変更された。 また、元学区の聚楽学区は、聚楽第の東側に位置しており、聚楽廻地域とは離れて位置する。 小・中学校の通学区域市立小・中学校に通う場合の通学区域は以下のとおり[23]。
交通地域内には、京都市三大事業によって、千本通が拡築され、明治45年(1912年)から京都市電千本線が運転されていたが、昭和47年(1972年)1月に廃止された。 千本通以西の丸太町通については、市区改正設計路線として拡築され、昭和3年(1928年)6月から西ノ京円町(後に電停名を円町と改称)・千本丸太町間で市電丸太町線が運転され、昭和51年(1976年)3月に廃止された。 鉄道路線バス道路
主な施設
名所・旧跡等脚注注釈
出典
参考文献
関連項目 |
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