膳桂之助
膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年7月21日 - 1951年11月25日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。位階は従三位。勲等は勲三等。日本工業倶楽部理事、日本団体生命保険社長、経済安定本部総務長官(初代)、物価庁長官(初代)、貴族院議員を歴任した。 概要第1次吉田内閣で国務大臣 (無任所)を務めた。日本国憲法の制定にあたって国務大臣として参与し、連署している。従三位勲三等瑞宝章。 経歴生い立ち1900年、旧制前橋中学(群馬県立前橋高等学校)に入学したが、教員追放運動に参加し、中退した。その後、正則英語学校を経て、築地の旧制立教中学校で修学した[1]。第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学(東京大学法学部)独法科に入学した。 官界1914年、大学を卒業し農商務省に入省した。商工局属[2]。官僚時代には健康保険法の立案に携わり、その成立に尽力した。その後、1926年に農商務省を退職し、日本工業倶楽部に転じた。 財界1933年の日本団体生命保険の設立に携わり、専務や社長を歴任した。1937年には第23回国際労働機関の総会に出席した。1943年には産業報国連盟の理事に就任した。 政界1946年、中央労働委員会使用者委員に就任し、6月8日には貴族院議員に就任した[3]。また、吉田茂に請われて第1次吉田内閣の国務大臣として入閣し、経済安定本部総務長官、物価庁長官として終戦後の混乱の収拾に尽力した。 1947年、第1回参議院議員通常選挙にて、全国区から無所属で立候補した。26万票以上を集め当選圏内に入ったが、連合国軍最高司令官総司令部の公職追放の憂き目に遭い、当選を返上した。墓所は多磨霊園。 その他昭和初期には、立教学院校友会の幹事役員を務めたほか、1928年(昭和3年)に設立された立教学院後援会でも理事を務めた[4]。 略歴
脚注
関連項目
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