船弁慶 (落語)

船弁慶』(ふなべんけい)は、上方落語の演目。『舟弁慶』とも表記する[1]

喜六と清八の喜六が妻に隠れて船遊びをしていたところ、妻に見つかって喧嘩になりそこで(にわか)の体裁での『船弁慶』をもじった寸劇を演じるという内容。落ち(サゲ)につながる「弁慶」の呼び名は、上方の遊里で客の大尽を「判官」(「宝(ほう)」との地口)と呼んだところから、その取り巻きとなる幇間を「弁慶」と呼ぶようになり、のちに原意が廃れて取り巻きを「弁慶」と呼ぶことだけが残ったとされる[1][2]。東大落語会編『落語事典 増補』は残った意味を「人のおごりで遊ぶ」ことだとする[3]

宇井無愁は、近松門左衛門の作品で源義経を「大尽」、弁慶を「幇間」として扱ったことがこの言葉の発祥であると記している[2]

あらすじ

ある暑い夏の日の夕方、喜六が自宅で仕事をしながら留守番をしていると、友人の清八が現れて、船遊びの誘いにやって来る。清八は「今晩は旦那衆を誘わいで(=誘わず)、身近な友達ばっかりで行く。年増やけれども、芸者も揚げるさかい、ひとり3円の割り前や」と告げる。喜六は妻・お松に散財がばれてきつく叱られることを恐れ、そのうえ、これまで毎回おごってもらって遊んでいたために、顔なじみの芸者たちに「弁慶はん(=常にお供をしている、という意味の花柳界における隠語)」と呼ばれて馬鹿にされていたことから、いったんは誘いを断る。清八は「誰かが、おまえの顔見てひと言でも『弁慶』言うたら、俺が割り前払(はろ)たる」と約束する。

そこへ、お松が帰ってくる。喜六は仕事着を外出着に着替えているところをお松に見つかり、外出先について口やかましく詰問される。清八は「喧嘩している友達を仲直りさせるための会をミナミで開く」と嘘をついて、逃げるように二人で出かけて行く。喜六は道中、清八に対し、近所で「スズメのお松」「雷のお松」とあだ名される自身の妻の恐ろしさについて、以下のように語る。

ある日喜六は、イカキを持って焼き豆腐を買ってくるようにお松に命じられたが、間違ってコンニャク(あるいは油揚げとも)を買ってきてしまう。お松の顔色を見て間違いを察した喜六は走って市へ戻り、今度はネブカ(=ネギ。あるいは大根とも)を買って自宅へ戻る。イカキの中身を見たお松はニタリと笑い、猫なで声で「ああ、ご苦労はん。ちょっとあんさんに話ィあるよって、こっちィおいはなれ(=来なさい)」と言うなり喜六の胸ぐらをつかみ、室内へ引きずり上げ、服を引きはがしてうつ伏せに押さえつけ、背中に大量のをすえはじめる。「人がちょっと甘い顔したらつけ上がりくさって、ド性骨(どしょうぼね)入れ替えてこましたるさかい」「熱い!!」「熱いンなら、こないしたる。こっち来さらせ」お松は、喜六を井戸端へ引きずって行き、冷たい井戸水を頭から喜六に浴びせかける。喜六が「嬶(かか)、堪忍してくれ。冷たいわい」と懇願すると、お松は「冷たいンなら、こないしたる」と言って、ふたたび喜六に灸をすえる。井戸水と灸を何度も繰り返されるうち、喜六はやっと、買い物が焼き豆腐だったことを思い出した(焼き豆腐は、水から引き上げられた豆腐を直火で焼いて作られる)。

以上のことを聞いて驚きあきれた清八は、「おまえ、嫁はんどついた(=殴った)ことないやろ」と喜六にたずねる。喜六は「わい、カナヅチ振り上げてん。ところがうちの嬶、体当たりしてきよってな、わいが、あお向けにひっくり返ったら、上から馬乗りになって涙こぼしとる。『何も泣かいでも(=泣かなくても)ええやないか』『ああ、わての水洟(みずばな)だす』。こう言われたら清やん、どつけんもんやなあ」と言ってのろける。

話をしているうちに、ふたりは難波橋の船着き場に着き、通い舟(大きな船にアクセスするための小舟)を経由して、友人や芸者の待つ「川市丸」に乗り込む。割り前を払いたくない喜六は芸者が「弁慶」と言うのを待ち構えるが、清八が先回りして口止めしていたために見込みが外れる。飲み食いするうち、泥酔した喜六は服を脱ぎ、赤いふんどし一丁になる。清八は面白がり、自身も服を脱いで「赤と白の源平踊りや」と、ふたりで座敷を出て船尾で踊り出す。

一方、お松も、夕涼みに近所の友人と連れ立って北浜にやって来る。友人に言われて、お松が大川を見やると、船の上で踊る喜六と清八を見つける。「まあいややの、あれ、うちの人やないか。うそォつきさらしよったな」頭にきたお松は難波橋に駆けて行き、通い舟をつかまえ、川市丸へ向かう。

お松は川市丸の座敷に飛び込み、「あんた。こんなとこで何してなはンねん」と叫ぶなり喜六の顔をひっかく。喜六は驚くが、酒に酔っており、友達の手前もあって、「何さらすんじゃ」と言い返すなり、お松を川の中へ突き落としてしまう。川は腰までの浅さであったため、お松はすぐに立ち上がるが、怒りと恥ずかしさのあまりに気がふれて、流れてきた竹竿を手にし、「そもそもこれは、桓武天皇九代の後胤、平知盛、幽霊なり……」と『船弁慶』の「祈り」の段における知盛の霊を演じはじめる。

周囲が呆然とする中、喜六はシゴキ(=三尺帯。あるいは手ぬぐいとも)を借り、「その時喜六は少しも騒がず、数珠をさらさらと、押し揉んで」と言いつつ輪にして大きな数珠に見立てて、「東方降三世夜叉明王、南方軍荼利夜叉明王……」と、「祈り」の段の弁慶を演じて応じる。

橋の上に野次馬ができ、騒ぎ始める。「あれ何だすねん」「えらい喧嘩でんな」「弁慶やってんのが幇間(たいこもち)。川ン中ァ立ってンのが仲居でんな。夫婦喧嘩と見せかけて、『船弁慶』の俄(にわか)やってまんねやがな。こら、ほめたらなあきまへんで」「川の中の知盛はんもええけども、船の上の弁慶はんも秀逸秀逸。よう!よう! 船の上の弁慶はん! 弁慶はん!」それを聞いた喜六は、

「何ィ、『弁慶』やと? 今日は、3円(または「3分(ぶ)」)の割り前じゃい!!」

題材について

大坂の夏の憩いであった難波橋での夕涼みでは、享保のころから涼み客による俄が始まり、3 - 4人組で周りの客からの要望に応じた出し物を演じていたという[2]

脚注

  1. ^ a b 前田勇 1966, p. 274.
  2. ^ a b c 宇井無愁 1976, pp. 485–486.
  3. ^ 東大落語会 1973, pp. 394–395.

参考文献

関連項目

  • 遊山船 - 本演目と同様船遊びを扱った上方落語の演目。
Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

Portal di Ensiklopedia Dunia

Kembali kehalaman sebelumnya