花守信吉花守 信吉(はなもり しんきち、1875年/1876年[注 1] - 没年不詳)は、白瀬矗の南極探検隊に参加した樺太アイヌの男性。 生涯南樺太敷香の領域にあった多来加(タライカ)の乙名の子孫として生まれる。アイヌ名は「シㇱラトカ(Sisratoka)」。 アイヌの伝承に詳しく、ポーランド人民族学者ブロニスワフ・ピウスツキの研究に協力し、著書[2][3]には花守の語ったアイヌの伝承文学がいくつも紹介され、アイヌ語辞典の作成資料として肉声[1][4]を蝋管(ろうかん)に録音した[5]。 同じ探検隊に所属していた多田恵一によると、花守の姓名は、日露戦争後、大谷本願寺の法主が樺太に出張した時、花守が随行し、その際、名づけられたという[6]。その名字を「花森」と書いている文献もあるが、探検隊長であった白瀬矗の『南極探検』や多田恵一の『南極日記』『南極探検私録』、南極探検後援会による『南極記』などの多くの文献では、「花守」と書かれており、おそらく花守が正しい。また、名を「新吉」と記した文献もあるが[7]、多くの文献では「信吉」となっている。 1910年(明治43年)11月29日に、白瀬矗を隊長とする南極探検隊の隊員として、山辺安之助らとともに、船『開南丸』に乗り込み、芝浦埠頭を出発する。花守信吉が集めたカラフト犬の10頭も含め、1911年2月にニュージーランドに到着し、その直後、南極大陸上陸に向けて出発するものの、一旦断念[注 2]。同年5月1日にオーストラリアのシドニーに引き返すこととなる。このときシドニーへの航路にて、横柄であるとして部下の不満が噴出していた白瀬矗隊長の毒殺計画を、山辺安之助と共に花守信吉が阻止したという情報がある[9][信頼性要検証]。およそ半年後の同年11月19日、南極大陸を目指してシドニーを離れた日本隊は、翌1912年1月16日、上陸する。同月28日、一行は南緯80度5分・西経165度37分まで到達、付近を「大和雪原」(やまとせつげん)と命名すると帰途につき、同1912年2月4日、南極大陸を離れると同6月に東京に戻る。 南極探検日本隊に参加した花守信吉を写した写真があり、今でもインターネット上で見ることが可能である[10]。 南極から帰還後の足跡については詳しく分かっていない。 2004年、サハリン州レスノエ(日本名:樺太富内郡富内村落帆)にて、山辺安之助とともに花守信吉の名前が書かれた日本語とロシア語による「白瀬南極探検隊慰霊碑」が建てられる[11]。 参考文献
脚注注出典
関連文献発行年の若い順。
外部リンク
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