苫小牧市立弥生中学校
苫小牧市立弥生中学校(とまこまいしりつ やよいちゅうがっこう)は、北海道苫小牧市弥生町1丁目にかつて存在した公立中学校。 概要苫小牧町立西中学校として開校戦後の教育改革により6・3・3・4の新学制が確立し、1947年(昭和22年)4月には旧国民学校初等科卒業生、高等科1、2年を修業した生徒は新制中学校へ進むことになった。だが、制度が決定しただけで、まだ中学校が設置されておらず、行き場のない生徒たちは元の小学校に集まり、身分も教科書もないまま、仮教室で授業が続けられた[2][3]。 1947年(昭和22年)5月27日の町議会で本校の設置が提出され、5月1日にさかのぼって、苫小牧町立西中学校、錦岡分教場、樽前分教場が東中学校と共に設置された。1947年(昭和22年)6月3日、9学級、441名をもって西小学校体育館において開校式と入学式を行い、新しい学校としてスタートした。しかし、当初は独立した校舎はなく、西小学校、苫小牧高等女学校(現・西高校)、苫小牧青年学校の一部を借用した[2][3]。 1948年(昭和23年)4月1日、市政施行により苫小牧市立西中学校に改称。同年8月、校章を設定、1949年(昭和24年)2月には校歌が完成した[3]。 弥生中学校への改称と校舎の落成同校の新設予定地には第1候補に弥生町、第2候補に山手町があげられていたが、教職員、父兄の弥生町設置の強い要望、弥生という名は不断の進歩、たえざる改造の学校精神に合しているなどから、敷地の正式決定のないまま苫小牧市立弥生中学校と改称した[3]。 1949年(昭和29年)6月28日、第1期工事の木造2階建て校舎が落成。翌年5月に第2期工事、12月には第3期工事の木造体育館が完成した[3]。 分校の独立と校区の分離1949年(昭和24年) 4月1日錦岡分校が錦岡中学校として独立[4]。1951年(昭和26年) 4月1日樽前分校が樽前中学校として独立した[5]。1956年(昭和31年)10月1日、両校は統合し、凌雲中学校となった[4]。 1961年(昭和36年)4月特殊学級山なみ学園を西小学校内に開設[3][6]。 1962年(昭和37年)に苫小牧市西地区の発展から、啓北中学校、光洋中学校が新設され、両校に生徒を分離。ただ、光洋中学校は校舎が落成しておらず、当校の一部を仮校舎として開校し、同年7月に移転した[3]。 1964年(昭和39年)4月に苫小牧工業高等専門学校が仮校舎として開校し、1965年(昭和40年)4月1日、現在地に移転した[3][7]。 1966年(昭和41年)4月、山なみ学園は山手町(現・松風町)に独立校舎を新設し分離。啓北中学校に移管された[6]。 閉校2011年1月、2012年度で廃校となることが決まった。校区は2013年度から東中学校、光洋中学校に統合されることとなった[8]。 1988年度ごろまでは生徒数500~600人、20~24学級で推移したものの、少子化と人口の移動で2010年度は118人、4学級まで減り、市教委は2022年度まで、100~120人、3~5学級で推移すると予測。校舎の老朽化も課題になっていた。市教委は学校規模適正化基本方針を策定しており、中学校は8学級以下が続く見通しの場合、校舎改築が必要になる時機に適正化を図るとしていた[8]。 2013年2月23日、閉校式典を当校体育館で開催。在校生、卒業生、元教職員など約500人が出席した[9]。3月13日、第66回卒業証書授与式を開き、最後の3年生44人の門出を祝した。卒業生の数は66年で1万3692人となった[10]。3月22日、66年の歴史で最後となる修了式を実施した[11]。 沿革出典:[12]
通学区域出典:[14] 周辺
アクセス著名な出身者
脚注注釈出典
参考文献外部リンク |
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