荒木氏綱
荒木 氏綱(あらき うじつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。波多野氏の家臣[2]。丹波国多紀郡荒木城主[3][4][注釈 2]。 生涯天正5年(1577年)11月、丹波攻略を目指す明智光秀は多紀郡の東口に位置する籾井城・安口城やその他敵対する多紀郡内の城11か所を落とし、それらに拠っていた者たちは「荒木・波多野両城」に逃げ込んだという[6][7]。 天正6年(1578年)4月、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀の軍勢が荒木城を包囲し、水の手が止められたことで城は落城した[8][4]。降伏後は明智光秀に従ったとみられるが[9]、氏綱は光秀からの仕官要請を断って、代わりに子の氏清[注釈 4]を出仕させたともされる[10]。 『本城惣右衛門覚書』によると、荒木城での戦いの際、荒木城には波多野秀治、赤井忠家、本城惣右衛門とその父が加勢していた[11]。また、明智光秀の配下となった氏綱は、天正7年(1579年)8月の丹波攻略終了までの間に大山城(丹波篠山市大山)に入っていた時期があったらしく、明智方の城を攻撃した惣右衛門らに対し、大山城より200から300の軍勢を送ったとされる[12]。 その後、天正10年(1582年)の本能寺の変に際して、『太閤記』には息子2人が明智秀満に従って大津で討死したとあり[9]、『武家事紀』には父子4人が瀬田で戦死したとある[13][9][注釈 5]。信憑性は落ちるが、『新撰豊臣実録』では氏綱は明智秀満の計らいで坂本城から脱出したとされており[9][10]、死亡時期については諸説ある。 氏綱の子・高兼は山崎の戦い等で戦死したが、その娘が秋田実季の正室・円光院に仕えて実季の子を産んだことで、高兼の息子・高次も秋田家に取り立てられた[1][14]。氏綱の来孫(高次の曽孫[15][16])で陸奥国三春藩の重臣である荒木高村の嫡男は、藩主・秋田輝季の養子となり、三春藩4代藩主・秋田頼季となった[1][17]。 脚注注釈
出典
参考文献
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