荒木貴裕
荒木 貴裕(あらき たかひろ、1987年7月26日 - )は、富山県小矢部市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。右投右打。 来歴プロ入り前津沢小学校のスポーツ少年団で、2年生の時に遊撃手兼投手として野球を始める[1][2]。津沢中学校時代は高岡シニアに所属し、全国大会に出場した[1]。 帝京第三高校では、1年秋から遊撃手のレギュラーとして活躍し、甲子園出場はならなかったものの、3年の2005年夏には県大会で4強の成績を残している[1]。3年夏の大会前に、近畿大学の練習に参加した際に監督・榎本保の目に止まり、入学することになる[1]。 近大進学後の関西学生リーグでは、1年春からベンチ入り[1]、2年春から遊撃手のレギュラーを務めた[3]。近大では、同期に後に阪神タイガースに入団する藤川俊介が[3]、2学年先輩に小瀬浩之がいた。3年時には大学日本代表に選出され、ハーレム国際と世界選手権に出場[1][4]。4年時は骨折で春季リーグの前半を棒にふったものの、復帰後にチームが6連勝をマークするなど存在感を発揮[3]。日米大学選手権では、大学日本代表の主将も務めている[3][4]。リーグ通算64試合出場、231打数66安打、打率.286、0本塁打、29打点[1]。遠投115メートル、50メートル6秒1の身体能力が評価されていた[2]。 2009年10月29日に行われたドラフト会議では、東京ヤクルトスワローズから3位指名を受け、11月24日に契約金7000万円、年俸1200万円(金額は推定)で仮契約[5]。12月9日に行われた入団会見では、宮本慎也を目標としてあげた[6]。小・中・大・大学日本代表と四度にわたって主将経験がある点から、キャプテンシーが評価されており、その点からも「宮本二世」の呼び声がかかっている[7][8]。 ヤクルト時代2010年1月6日に戸田の球団寮に入寮、荒木自身が5歳の時に亡くなった「姉の分も頑張りたい」とコメントしている[9]。自主トレでは青木宣親から「柔らかくていいスイングをしている」と評価された[10]。春季キャンプは一軍スタート[11]。開幕一軍に入り、ヤクルト球団としては1970年の中村国昭以来となる開幕スタメン(7番・遊撃手)に入った。 2011年のフレッシュオールスターゲームでは2安打1打点、守備ではファインプレーと攻守に渡って活躍し、MVPとなった[12]。 2012年は6試合の出場に終わった。 2013年、守備に難点があるため、一塁、三塁にコンバートされる。シーズン中盤、一軍へ昇格。6月9日の対北海道日本ハムファイターズ戦において、三塁手としてリーグワーストタイとなる1試合3失策を記録した[13]。相変わらず守備に課題がある一方、2013年は打撃が向上し、二軍で首位打者(打率.337)を獲得。 2014年、オープン戦は外野手として出場したが、シーズンに入り遊撃手のレギュラー候補3人が相次ぎ怪我で欠場。二軍で正規の遊撃手がいない状態になり、外野手構想から遊撃手に復帰。4月26日遊撃手として一軍へ昇格。昇格後は遊撃手のレギュラーとして活躍したが、森岡良介の復帰とともに失速し、7月26日に二軍へ降格。9月27日、再び一軍登録、外野手で試合出場した。この年は55試合に出場した。この年の秋季キャンプ終了後、次期監督の真中満から徳山武陽、古野正人、西浦直亨らと共に、1番成長が感じられた選手の1人として挙げられている[14]。 2015年は、前半戦は主に1番レフトとして出場。その後もリハビリ中のウラディミール・バレンティンや離脱したラスティングス・ミレッジの代わりとしてスタメンで好成績を残す。しかし、シーズン途中に骨折で離脱。復帰後は主に代打、代走として出場し、5盗塁含む自己最多の73試合に出場した。クライマックスシリーズ、日本シリーズでは打撃機会こそはなかったものも代走として3試合に出場した。シーズン後の契約更改では450万円増の2000万円(推定)でサインした[15]。 2016年は、61試合に出場。 2017年、5月14日の対中日ドラゴンズ戦で大野雄大からプロ初となるサヨナラ満塁本塁打を記録[16]したことにより、5月のスカパー!サヨナラ賞を受賞した[17]。同年4月2日に鵜久森淳志も代打サヨナラ満塁本塁打を放っており、同一球団によるシーズン2本のサヨナラ満塁本塁打は1988年の藤田浩雅、福良淳一(阪急ブレーブス)以来29年ぶりでプロ野球史上3度目、セ・リーグでは史上初の快挙となった[18]。この年は91試合に出場し、打率.207、6本塁打、25打点を記録した。 2018年は、チームの連敗を止めるサヨナラ打や試合を決定づける満塁弾[19]を放つなど[20][21]、随所に輝きをみせた。最終的に62試合に出場し打率.218、3本塁打、21打点を記録した。 2019年は、前年を上回る93試合に出場した。打率も.250を記録した。 2020年は、63試合の出場に留まり、打率.164、1本塁打[22]、7打点と結果を残せなかった。 2021年は、開幕一軍のメンバーに選ばれた[23]。内外野の控え(主にホセ・オスナの守備固め)として[24]、オリンピック中断期間を除いて1年を通して一軍に居続け、途中出場がメインながらプロ入り以降最多の100試合に出場し、チームの優勝、日本一に貢献した[25]。ポストシーズンでは6試合に出場しながら一度も打席に立たなかったものの、日本一を決めた日本シリーズ第6戦は、延長12回裏、一塁を守っていた荒木が山田哲人からの送球を受けて試合終了、ウイニングボールを掴んだ選手であった[25]。 2022年は、前年を半分以上下回る47試合の出場に留まった。 2023年は、9月22日に同年限りでの引退を発表[26]。9月30日の対横浜DeNAベイスターズ戦で引退試合が行われた[27]。自身は7回裏無死一塁で代打出場し、空振り三振[27]。そのまま一塁の守備につき、9回裏の最終打席(第2打席)はあわや本塁打という左飛に倒れた[27]。試合後のセレモニーでは同級生の川端慎吾から花束が手渡され、マウンドに集合したナインから胴上げされ10度宙を舞った[27]。 選手としての特徴・人物対左投手に強く、内外野全ポジションを守れるユーティリティープレイヤー[28]。際立って打撃力や走力、守備力が高いわけではないものの、与えられた役割を堅実にこなせるいぶし銀としてチームを支える[25][29]。2021年は自己最多の100試合に出場しながら、そのうち91試合が途中出場で、その内訳は代打18試合、代走21試合、守備固め52試合と、内外野の控えとして様々な役割をこなした唯一無二の存在だった[25]。 チームトップの練習量を誇る努力家[30]。「野球は9人ではできない」を信条とし、ベンチスタートでも途中出場に向けて準備を怠らず、5回からベンチ裏でバイクを漕いで体を温めている[31]。 幼少期から大学時代まで仲の良い友人でも苗字でしか呼ばれたことがなかったが、プロ入り後に同姓の荒木大輔がコーチにいたことで、自身は下の名前や「タカ」という愛称で呼ばれるようになった[32][30]。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
表彰
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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