菅谷勘三郎![]() 菅谷 勘三郎(すがや かんざぶろう、1886年〈明治19年〉1月2日[1][2] - 1953年〈昭和28年〉4月18日[1][3])は、大正・昭和時代の日本の政治家。群馬県議会議員(1期)、群馬県会議員(6期)、第27代群馬県会議長、吾妻郡岩島村長などを務めた。幼名は善之(よしゆき)[1][4][2][3]。 来歴1886年(明治19年)、群馬県吾妻郡郷原村(岩島村を経て現・東吾妻町)の旧家に[1]、村会議員などを務めた先代勘三郎とやいの次男として生まれる[2]。先祖は菅谷勘右衛門の名を世襲し苗字帯刀を許された豪農・名主であった[2]。1892年(明治25年)に父が死去したため勘三郎を襲名し[1][2][3]、後に村長を務める叔父・慎三郎の後見を受ける[3]。1903年(明治36年)に群馬県立農学校を卒業した後は[1][2]、家業の農業に従事した[3]。 岩島村消防組長や村会議員を経て1920年(大正9年)に岩島村長に就任[1][4][2][3]。1923年(大正12年)に群馬県会議員に初当選[1][5][4][2][3]。以後1947年(昭和22年)まで6期務める。民政党に所属した[1][4][3]。1941年(昭和16年)には第27代群馬県会議長に就任[6](吾妻郡選出の議員として初[1][5][2][3])。 戦後、GHQの指令により公職追放となる[1][5][4][2][3]。 追放解除後の1951年(昭和26年)、群馬県議会議員選挙に出馬して当選し、県政への復帰を果たす[1][5][2][3]。 1953年(昭和28年)、議員在職中に急性肺炎で死去[1][2][3]。没後従六位勲五等を追贈された[1]。また頌徳碑が地元に建立されている[1][2][3]。 群馬県購買販売利用組合連合会長、養蚕組合連合会長、群馬県農業会副会長などの農業団体の役職を歴任[1][4][2][3]。岩島銀行や原町銀行にも関与したほか、碓氷社万年組で製糸業にも携わった[1][4][2]。群馬県会議員・衆議院議員・参議院議員を歴任した木檜三四郎は同郷の先輩であり、親交があった[1][2][3]。 脚注出典
|
Portal di Ensiklopedia Dunia