葛城襲津彦葛城 襲津彦(かずらき の そつひこ[1][2]/かづらき-[3]/かつらぎ-/かずらぎ-、生没年不詳:4世紀末から5世紀前半頃と推定[2])は、記紀等に伝わる古代日本の人物。 武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、履中天皇(第17代)・反正天皇(第18代)・允恭天皇(第19代)の外祖父である。対朝鮮外交で活躍したとされる伝説上の人物であるが、『百済記』の類似名称の記載からモデル人物の強い実在性が指摘される。 名称名称は、『日本書紀』では「葛城襲津彦」、『古事記』では「葛城長江曾都毘古(曽都毘古)」や「葛城之曾都毘古」と表記される。襲津彦のモデル人物は実在を仮定すれば4世紀末から5世紀前半頃の人物と推測されるが、その頃に氏・カバネは未成立であるため、「葛城」というウジ名のような冠称は記紀編纂時の氏姓制度の知識に基づいて付されたものになる[4][5]。 他文献では「ソツヒコ」が「曾頭日古」「曾豆比古」「曾都比古」とも表記されるほか、『紀氏家牒』逸文では「葛城長柄襲津彦宿禰」と表記される。 また、『日本書紀』所引の『百済記』に壬午年(382年[1])の人物として見える「沙至比跪(さちひこ)」は、通説では襲津彦に比定される[2]。 系譜なお武内宿禰の系譜に関しては、武内宿禰が後世(7世紀後半頃か)に創出された人物と見られることや、稲荷山古墳出土鉄剣によれば人物称号は「ヒコ → スクネ → ワケ」と変遷するべきで襲津彦の位置が不自然であることから、原系譜では襲津彦が武内宿禰の位置にあったとする説がある[5]。 伝承高知県安芸郡奈半利町の多気・坂本神社では、坂本臣氏の祖として襲津彦が祀られている[10]。ただし、『日本書紀』などでは坂本臣氏の祖は紀角の子孫の根使主であるとされている。 高知県の葛木男神社には、布師臣が先祖の襲津彦を祀ったとする伝承が存在する。 兵庫県神戸市の一宮神社の境内社の伊久波神社には襲津彦の子[11]の伊久波戸田宿禰が祀られており、戸田宿禰の子孫である布敷首や同族の生田首によって祀られたのが始まりであるとされる[12]。また、同市灘駅の付近に古墳時代後期に築かれた横穴式石室の円墳があり、「布敷首霊地」と呼ばれ、布敷首が葬られているとする伝承がある。ただし、その証拠はなくあくまで伝承である[13]。 記録日本書紀『日本書紀』では、神功皇后・応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代)に渡って襲津彦の事績が記されている[2]。
その他『古事記』では事績に関する記載はない。 『万葉集』では、襲津彦に関連する次の1首が見える(強弓の典型例として伝説的武将の襲津彦を引き合いに出した歌)[16][17]。
内容は「葛城の襲津彦が使う新木の強弓のように、私を妻として頼りにしておいでなので、それで私の名を口に出されたのでしょう」という意味になり、恋人の名は2人の関係が公式に認められるまでは互いに口外しないという日本の古代社会の慣習の中で、男を確実に獲得した誇らしげな女の歌と解される[18]。 また、「荒木」を奈良県五條市の荒木神社のことであるとして、葛城襲津彦は荒木神社の付近を通って紀伊国名草郡から朝鮮半島に渡っていたとする説も存在する[要出典]。 『聖誉抄』に引用された「秦造川勝臣本系図」によれば、襲津彦は「豆麻乃加知(朝津間の勝か)」と「槻田加知(槻田(調田坐一言尼古神社付近か)の勝か)」を有したという[19]。 墓墓の所在は不詳。奈良県南西部の葛城地方では、襲津彦と関連が推測される古墳として室宮山古墳(室大墓、奈良県御所市室)がある。同古墳は、葛城地方最大(全国第18位[20])規模の前方後円墳で、5世紀初頭頃の築造と推定される。出土品のうちでは、加耶(朝鮮半島南部)産の船形陶質土器が記紀の襲津彦伝承と対応するものとして注目される[21]。同古墳では武内宿禰の墓とする伝承も古くよりあったが、近年では築造時期から襲津彦の墓と推定する有力視されている[22][21]。ただし、記紀における襲津彦の人物像のモデル人物は複数存在する可能性があるため、同古墳の被葬者と一対一に対応するものではない[23]。 後裔氏族『古事記』では、玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣らの祖とする[2]。
また『先代旧事本紀』「国造本紀」穂国造条では、襲津彦命を生江臣の祖とする。 さらに、高知県安芸郡奈半利町の多気・坂本神社では、坂本臣氏の祖として襲津彦が祀られている[10]。ただし、『日本書紀』などでは坂本臣氏の祖は紀角の子孫の根使主であるとされている。 国造『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。 考証『古事記』では「葛城長江曾都毘古」の名で見えるほか、『紀氏家牒』逸文では大倭国葛城県長柄里(現・奈良県御所市名柄か)に住したので「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけたとあり、葛城地方の長柄(長江)地域との深い関係が指摘される[2][1]。また襲津彦の子孫のうち、仁徳皇后の磐之媛命が履中・反正・允恭を産んだと見えるほか、襲津彦男子の葦田宿禰の娘の黒媛も履中の妃となった見えており、5世紀代における天皇家外戚としての葛城勢力の繁栄が推測されている[1]。 『日本書紀』では襲津彦に関する数々の朝鮮外交伝承が記されているが、『百済記』所載の「沙至比跪」の記載の存在から、実在モデル人物を基にソツヒコ伝承が構築されたとする説が有力視されている[2]。一方、襲津彦という人物の実在性には慎重な立場から、あくまでも葛城勢力により創出された伝承上の人物に過ぎないとする説や[5]、朝鮮に派遣された葛城地方首長層の軍事的活動を基に人物像が構築されたとする説もある[3]。 神功紀は伝承的かつ複雑な性格が強く、実年代が決定しにくいが、神功紀の記載は干支三運加算の修正が妥当だとすれば壬午年は442年に相当する。親新羅的な立場の允恭天皇に比定される倭王済が451年の中国への遣使ではじめて加羅を含む六国諸軍事号を申請していることと対応する。442年に葛城襲津彦に比定される沙至比跪が大加羅国(高霊)を征討したが失敗したことを示している。新羅を討ちたい天皇と加羅を討った「沙至比跪」との立場の違いや、「天皇」は百済の将・木羅斤資により加羅国を救援させたという伝承からは、新羅-葛城氏と百済-木羅斤資-ヤマト王権の対立関係を読み取ることができ、有力氏族の独立性と独自の交通の可能性を指摘できる。襲津彦は加羅に長期滞在し、新羅・百済・加羅という多方面の外交窓口となっており、自己の配下に渡来系氏族を編成していたことがうかがわれる。新羅の人質・微叱己知を送還する使者に葛城襲津彦が任命されていることを重視するならば、新羅から人質がやってきた五世紀前半の状況に適合する[25]。 田中史生は、沙至比跪(葛城襲津彦)の大加耶攻撃が倭王済の意図に反しており、倭王済は「百済との友好関係を前提に宋に通じ、大加耶などの軍政権を要求し、百済とともに沙至比跪ら加耶南部や新羅と通じた葛城の有力首長を牽制したとみられる」と指摘するが、倭王済が宋に対して「加羅」(=大加耶)の軍政権を要求していることからみて、倭王は大加耶に対して関心を持ち続けていたと考えられるから、沙至比跪(葛城襲津彦)の大加耶進出はそうした情勢をふまえたものであったと理解できる、とする指摘がある[26]。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |
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