蓮家寺 (福島県棚倉町)
蓮家寺(れんげじ)は、福島県東白川郡棚倉町にある浄土宗の寺院[1]。板垣退助ゆかりの寺[2][3]。 概略慶長8年(1603年)幕府代官・彦坂小刑部元正の家臣であった蓮池主水、糟家彌兵衛の両名が阿弥陀如来を奉った寺を創建。寺名は初め「阿弥陀寺」と号したが、のち施主の姓・蓮池の「蓮」と糟家の「家」にちなみ「蓮家寺」と呼ばれ、これが正式名称となった[1]。 寛永4年(1627年)棚倉藩主となった内藤豊前守信照の庇護を受け、慶安元年(1648年)徳川家光より朱印を下賜された。以後、棚倉藩は藩主の国替による交代が頻繁にあったが、幕府からは徳川綱吉、吉宗、家重、家治、家斉、家慶、家定から朱印を下賜されている[4]。藩政期に伽藍が整えられ、山門、本堂、鐘楼、観音堂、常念佛堂、十王堂、地蔵堂が建設された[5]。 沿革第4世住職・尊譽上人の時に、正保4年(1647年)、棚倉藩主・内藤信照が銅鐘を寄進。 第24世住職・海全の時に戊辰戦争が勃発。官軍側は白河大統寺の住職・賢邦和尚を使者として恭順を勧めたが、棚倉藩が拒絶した為、板垣退助率いる800の兵に攻められて戦闘となった。合戦わずか一日で官軍の勝利が決まり、棚倉城を守備していた阿部正外は抵抗の末、城を放火して逃亡した[6]。そのため、官軍は城内に本陣を営むことが出来ず、近隣にあった蓮家寺が官軍本陣として使用されることになる[7]。この時、官軍大将として板垣退助が旧暦6月24日から7月24日まで同寺に宿泊した[5]。その間、三春藩の河野広中が土佐藩(断金隊)の美正貫一郎と決死の交渉を敢行し、三春藩恭順を平和裏に成功させている。蓮家寺は官軍本陣として重要な役目を果たした為、戦災を避けられたが、明治維新後、廃藩置県による棚倉藩からの庇護打ち切りによって衰微し、加えて明治23年(1890年)1月の火災により、本堂、観音堂、庫裡が焼失した[5]。 第25世住職・聖隣の時、本堂再建。消失した旧本尊の代わりに、茨城県瓜連の常福寺より請来した阿弥陀如来三尊像を本尊とした[8]。 第26世住職・良哉の時、大東亜戦争に際し、昭和19年(1944年)2月阿弥陀如来坐像[9]を供出令により供出するため棚倉駅に運搬するが、大仏を出征させることが忍び難く、駅構内に秘納。代わりに同等以上の銅を集めて供出し、戦後同寺に戻された[5]。 年中行事
寺宝
著名な墓
交通アクセス
脚注
参考文献
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