藤原親経藤原 親経(ふじわら の ちかつね、仁平元年(1151年) - 承元4年11月11日(1210年11月28日))は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての公家。藤原北家真夏流(大福寺流)、参議・藤原俊経の次男。官位は従二位・権中納言。 経歴後白河院政期前期の仁安3年(1168年)文章得業生に補せられる。高倉天皇の六位蔵人や大学助を経て、承安元年(1171年)従五位下に叙爵し、承安2年(1172年)宮内権少輔に任官した。 治承2年(1178年)春宮・言仁親王の学士を兼任し、治承3年(1179年)再び高倉天皇の蔵人(五位蔵人)を務める。治承4年(1180年)言仁親王の践祚(安徳天皇)により、親経は高倉院の判官代となった。 文治元年(1185年)源頼朝の推挙により、上﨟の蔵人であった藤原親雅・藤原定経を超えて親経が右少弁に任ぜられると[1]、文治4年(1188年)権右中弁、文治5年(1189年)従四位上・右中弁、建久元年(1190年)正四位下・左中弁、建久6年(1195年)右大弁と弁官を務めながら順調に昇進する。この間、記録所勾当・氏院別当・造興福寺長官・御書院別当・率分勾当などを兼任し、建久5年(1194年)には文章博士にも任ぜられている。また、後白河院の院司、九条兼実の家司など務めた。 建久9年(1198年)正月の土御門天皇の践祚に伴い、親経は後鳥羽院別当に補任され、同年12月には蔵人頭も兼ねている(右大弁は辞任)。正治2年(1200年)参議に任ぜられ公卿に列し、その後も建仁元年(1201年)従三位、建仁3年(1203年)正三位と昇進を続けた。建仁4年(1204年)左大弁を兼ねて約6年ぶりに弁官に復任すると、のちに造東大寺長官・勘解由長官・式部大輔なども兼帯している。 建永元年(1206年)権中納言に昇任されるが、承元2年(1208年)7月に子息の親宗を蔵人に補す代わりに中納言を辞任。同年12月に従二位に至った。 承元4年(1210年)11月11日に熊野参詣の途上の紀伊国藤代宿で没する。享年60。 人物漢詩に秀で、後鳥羽・土御門2代の侍読となり、九条兼実からは「当時の儒者で右に出るものはいない」と絶賛されている(『玉葉』)。元久2年(1205年)には『新古今和歌集』の真名序文を作成した。日記に『親経卿記』、著書に『角黄記』『東大寺供養式』などがある。 官歴『公卿補任』による。
系譜『尊卑分脈』による。 脚注参考文献 |
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