藤原資信藤原 資信(ふじわら の すけのぶ、永保2年(1082年) - 保元3年11月18日(1158年12月10日))は、平安時代後期の貴族。初名は資懐。藤原北家小野宮流、参議・藤原顕実の長男。官位は正三位・中納言。 経歴諸陵助・式部丞を経て、白河院政期中期の康和4年(1102年)叙爵する。康和6年(1104年)春宮・宗仁親王の昇殿を許されたのち、越後権守次いで中務大輔に任ぜられた。 嘉承2年(1107年)宗仁親王が践祚(鳥羽天皇)すると資信は昇殿を許され、嘉承3年(1108年)左衛門佐に遷り、天仁2年(1109年)従五位上、永久2年(1114年)正五位下と昇進していく。しかし、左衛門佐から近衛少将への任官は叶わず、まもなく兵部権少輔(のち権大輔)に遷され、同年7月には小板敷で左近衛少将・藤原実衡と乱闘事件を起こし恐懼処分を受けてしまう。以降昇進も止まってしまい、さらに保安4年(1123年)鳥羽天皇が崇徳天皇に譲位すると昇殿を止められるなど、資信は30歳代から40歳代にかけて不遇を託った。 長承元年(1132年)9年ぶりに昇殿を許されると、長承2年(1133年)五位蔵人、長承3年(1134年)右少弁と俄に栄職に登用される。その後は、保延3年(1137年)権右中弁、保延4年(1138年)従四位下、保延6年(1140年)従四位上、永治元年(1141年)左中弁と、弁官を務めながら順調に昇進し、永治2年(1142年)61歳にして正四位下・蔵人頭に叙任された。 同時に蔵人頭となった藤原経宗とともに7年半に亘ってこれを務め、この間の久安4年(1148年)資信は右大弁に昇任されている。久安5年(1149年)経宗とともに参議に任ぜられ、資信は68歳にして遂に公卿に列した。議政官の傍らで、引き続き左右大弁を兼帯し、久寿2年(1155年)従三位に昇叙されている。後白河院政期に入っても、保元元年(1156年)藤原公通を超えて正三位・権中納言に叙任されるなど昇進を続け、保元2年(1157年)中納言に至った。 保元3年(1158年)8月に猶子の藤原資忠を木工頭に任じる代わりに、資信は中納言を辞して兼任していた兵部卿のみを帯びた。同年11月8日に出家。11月18日に薨去。享年77。 官歴『公卿補任』による。
系譜『尊卑分脈』による。 脚注参考文献 |
Portal di Ensiklopedia Dunia