藤波言忠
藤波 言忠(ふじなみ ことただ)は、日本の華族、宮中顧問官、政治家。正二位勲一等子爵。 生涯広橋邸にて広橋胤保の次男として生まれる。文久3年(1863年)頃に藤波教忠の養子となる。明治5年(1872年)に福羽美静の門弟となる。同級に元田永孚・加藤弘之がいた。 明治10年(1877年)に侍従試補に、明治12年(1879年)には侍従になる。明治17年(1884年)7月8日に子爵を授かる。明治22年(1889年)には侍従を退き、宮内省主馬頭になる。この間にウィーンに派遣され、国家学をローレンツ・フォン・シュタインに学んだ。帰国後にした進講は四か月ほどで33回もした。明治天皇・昭憲皇太后両方の崩御の時にどちらとも大喪使事務官を務めた。翌年に延期された大正天皇の大礼使車部長を務め、大正5年(1916年)1月8日に主馬頭を辞め、専任宮中顧問官、貴族院勅選議員となる[2]。同年から『明治天皇紀』の編修に尽くしたが、完成前の大正15年(1926年)5月24日に死去した。享年74。墓所は青山霊園 1-ロ12-23。 馬との関わり明治天皇の信頼厚い侍従である藤波は明治憲法制定など重要な場面にしばしば登場している。明治政府にとっては軍事・農業・荷役などで重要な馬の改良や増産は国家的課題だったが藤波は馬政にも大きくかかわっている。藤波は宮内省主馬頭として御料牧場の発展に貢献し、馬匹改良30年計画などにも参画している。また、明治17年からの上野不忍池競馬は国家的行事として行われていたが、藤波はそれの運営組織共同競馬会社の幹事も務め、生涯成績39戦28勝を修めた当時の有力馬「墨染」の馬主でもある。競馬の開催で駿馬の生産を促し駿馬を増やすことで馬匹の改良につなげる方針で日露戦争後の馬券黙許の実現にも関わっている[3][注 2]。 家族
栄典
脚注注釈出典
参考文献
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