見よ、飛行機の高く飛べるを
『見よ、飛行機の高く飛べるを』(みよ、ひこうきのたかくとべるを)は、永井愛作の戯曲。1997年初演。永井は本作品と『ら抜きの殺意』により芸術選奨文部大臣新人賞を受賞した[1]。4半世紀以上にわたり、様々な劇団、また学生演劇部によって上演され続けている[2][3][4]。1998年に而立書房より出版された[5]。 物語の背景1911年(明治44年)5月、日本で国産民間機の初飛行が成功し[6]、翌6月に石川啄木は「飛行機」という詩を書いた[7]。永井は、この啄木の詩の一節をタイトルとし、祖母の永井志津と市川房枝の交流を題材にして[8]、本作品を書き下ろした。初演は1997年(平成9年)。物語の背景は下記のとおり。 1909年(明治42年)4月、市川房枝は愛知県額田郡岡崎町(現・岡崎市六供町)にあった愛知県第二師範学校女子部に入学した[9]。当時、師範学校は月謝がなく、寄宿舎の費用も無料であった。かつ卒業後は5年間、県内の小学校に勤務する権利と義務が与えられていた[10]。その岡崎の師範学校の1年上級に永井志津がいた。市川は志津に「自分はいつか、全国女教員の読む雑誌を出したいと思っている。力強い文章を書くには、どうしても漢文が必要だ。いっしょに勉強をしないか」と言った[11][12]。それから毎夕食後、市川と志津は作法室に行き、『日本外史』などから読み始めた。志津によれば、いつも雑談に花が咲いてしまい、折角の勉強もあまり実らなかったが、市川が志津の入っている弓術部に顔を出したりして、二人は親しくなっていったという[11]。 4年目の1912年(明治45年)4月、西春日井郡金城村(現・名古屋市西区天神山町)に愛知県女子師範学校が新設され[13][14]、市川も下級の3年生、2年生とともに同校に移った。新任の校長は植物学者の郷野基厚だった[10][15]。郷野の推し進める良妻賢母教育に反発していた市川は同年7月、ついに同級生28人と授業ストライキを実施し、28か条の要求書を提出した[9][10]。 あらすじ
主な公演初演は1997年10月。劇団青年座によって行われた[17]。それぞれの劇団によって物語の場所は異なり、岡崎市とするものもあれば、名古屋市とするものもある[18][1]。
脚注
参考文献
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