豊日別
概要『古事記』国産みの段において、伊邪那岐命・伊邪那美命が産んだ大八島国の一つである筑紫島は、伊予之二名島と同じく体は1つだが顔は4つあるとした。その2番目が豊国であるが、神の顔の名は豊日別であると記している。他の3つの顔は筑紫国の白日別、肥国の建日向日豊久士比泥別、熊襲国の建日別である。
ただし、江戸中期の神道学者の度会延佳は、筑紫国や豊国といった国名は、いささか後世になってからの名称であって、神代には、国名が白日別、豊日別などの名称だったのであろう、筑紫島が9国に分かれ西海道と呼ばれるようになったのも(律令制が敷かれた)のちのことである、としている[1]。 祀る神社到津八幡神社、豊日別宮(草場神社)、闇無浜神社、菅原神社、高住神社、温泉神社などに祀られている。
豊日別宮(福岡県行橋市)の社伝では、6世紀の欽明天皇2年、筑紫国の日別大神の神官・大伴連牟彌奈里に「吾は猿田彦神なり」と神託があり、猿田彦は天照大神の分神であり、 豊日別大神を本宮とし、猿田彦を別宮とするとの記述がある。ここから、豊日別は猿田彦と同一神格と見られることもあるが、道祖神とはやや異なろう。 豊日別宮の社伝は、豊日別が高御産巣日神と入れ替わったように見えるが、両者が同一の神格であることを示す傍証とも言えよう。或いは「豊日別」が高木神の称号または役職名であったのかもしれない。初期王朝に於ける「別」「耳」は、首長または国の名に使われている。
高来郡(肥前国)ではこの四面神を「お四面さま」として祀り、四面宮 と称した。雲仙を本宮とし、山田・千々石・有江(有家)・伊佐早(諫早)に分霊を置いて遥拝した。後、島原半島一円に広がった。キリシタン大名有馬晴信により、その家臣団が煽動した島原の乱により、多くが破壊されてなお存続したが、開化期に至り「温泉(うんぜん)神社」と改称した。長崎県雲仙市小浜町、別名「四面宮」。
高住神社は、鷹巣山を拝する鷹栖宮であるが、豊日別を英彦山北岳の高住神社に祀る。八大天狗の彦山豊前坊としても知られ、北部九州に散在する「豊前坊」「豊日社」は、この神を英彦山修験が祀ったものである。
英彦山麓に林立する高木神社は、元は大行事社といった。この大行事権現は高御産巣日神であり、猿田彦大神に変身して瓊瓊杵尊の天下りを助けたと伝わる。
古事記は、『是高木神者、高御産巣日神之別名。』として、天下り事業を指揮する途中、天若日子を処断する時に神名を変える。対して日本書紀では「高皇産靈命」で通すのだが、この名を冠する神社は北部九州では見かけず、「高木」「鷹栖」ばかり。十禅寺とは国常立尊から数えて10代目の意で、瓊瓊杵尊(ににぎ)を指す。英彦山は瓊瓊杵尊の父、天之忍穂耳命(あめのおしほみみ)の鎮まる山であり、瓊瓊杵尊を祀る社殿もある。
雲仙四面宮も、筑紫国魂社を名乗ったことがある。雲仙岳は高来山とも呼ばれ、筑後平野から仰ぎ見る神奈備であった。 四面宮改め温泉神社群については、最近になって 四面宮会のホームページ が出来たので、そちらを参照されたい。 脚注
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