貞熹王后
貞熹王后尹氏(ていきおうこう・いんし/チョンヒワンフ・ユンシ、1418年12月8日 - 1483年5月6日)は、李氏朝鮮第7代国王世祖の正室。本貫は坡平。諡号は慈聖欽仁景徳宣烈明順元淑徽慎恵懿神憲貞熹王后。朝鮮最初の「垂簾聴政」を行った。 生涯尹氏は江原道で生まれた。11歳のころ、世宗の次男・首陽大君(後の世祖)の正室選びに宮廷の使者が訪れ、それを見に母の後ろに隠れていた彼女は使者の目に留まり、決定された。当初、尹氏の姉が正室候補であった。尹氏は1歳年上の首陽大君と結婚、2男1女を儲けた。 1452年、首陽大君が韓明澮らと手を組み「癸酉靖難」を起こし朝廷を掌握。決行前、ためらう夫に尹氏は鎧を着せ決心を促し成功に導いた。それが彼女を国政に動かす契機となった。 1469年、慈聖大妃は睿宗の息子が幼いため、韓明澮と協力し、桃源君の次男で13歳の乽山君を国王に即位(成宗)させ、摂政として桃源君の妃で新国王・成宗の生母である仁粋大妃とともに国政を取り仕切った。儒教中心の朝廷で女が直接表立つことが好まれなかったため、玉座の後ろに簾を掛け、朝鮮で初めて「垂簾聴政」を行った。一方、仁粋大妃は桃源君と自身の長男 月山大君や睿宗の次男 斉安大君に要職を与え彼らを宥めた。 夫の意思を継いで朝鮮の国力を強化した慈聖大王大妃は、1476年、成宗の親政開始に伴い摂政を退き、1483年、薨去。 家族
1873年に徐有英が執筆した説話集『金鶏筆談』に収録された説話中では、娘は二人おり、姉が懿寧公主李世熺、妹が懿淑公主であるとされている。しかしこの説話以外に李世熺の存在を裏付ける文献はない。 貞熹王后が登場する作品
出典
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