那俄性哲也
那俄性 哲也(ながせ てつや、1960年11月14日 - )は、高知県競馬組合所属の調教師、元騎手(騎手時代及び厩舎開業時は福山競馬場所属)である。広島県出身。 騎手時代の勝負服の柄は胴白・赤襷・袖青・赤一本輪。父は元騎手・調教師の那俄性一人で、叔父は元騎手・調教師の那俄性裕。 経歴騎手時代1980年3月31日付けで地方競馬騎手免許を取得し、那俄性一人厩舎からデビュー。同年4月26日に初騎乗。翌4月27日第2回福山競馬2日目第9競走サンケイスポーツ賞でベストボーイに騎乗(10頭立て5番人気)し初勝利。 福山競馬のリーディングでは1987年に記録した2位が最高位だったが、上述の初勝利をメインレースで挙げるなど大舞台での勝負強さを見せ、14年間の騎手生活で重賞31勝を挙げた。 騎手時代の代表的なお手馬として「福山史上最高の名馬」と称されるローゼンホーマが挙げられる。1986年には福山所属馬としては2頭目となる楠賞全日本アラブ優駿(園田)制覇を成し遂げ[1]、翌1987年には福山所属馬として唯一の全日本アラブ大賞典(大井)制覇を成し遂げるなど、出走した41戦中40戦に騎乗して34勝を挙げ、引退レースとなった1988年の福山菊花賞で3着に敗れるまで続いた40連対は、日本における当時の最多連続連対記録となった[2]。 この他にも、アサリユウセンプー(1989年楠賞全日本アラブ優駿(園田))やブラウンバツト(1993年西日本アラブ大賞典(佐賀))といった馬に騎乗し、福山競馬場のみならず他場で行われた重賞競走を数多く制覇した。 1990年代に入っても活躍を見せていたが、この頃からヘルニアを患うなど腰痛が悪化し、体重制限も思うように出来なくなって来た事から、1993年9月27日に騎手を引退した[3]。引退日には4勝をマークし、ラストレースとなった第9回福山競馬6日目第10競走アラ系一般C2でもミヤジキッカオーに騎乗(8頭立て2番人気)して勝利、有終の美を飾った。 騎手としての地方通算成績は6207戦816勝(重賞31勝)・勝率13.1%。 主な騎乗馬
調教師時代騎手引退後は調教師に転身し、1994年4月に厩舎開業。同年4月30日第2回福山競馬2日目第6競走アラ系4歳(旧年齢)一般戦に管理馬を初出走(タニノフラワー、9頭立て6番人気4着)。同年7月25日第7回福山競馬3日目第3競走アラ系一般C2で調教師として初勝利(ハクバショウグン、9頭立て1番人気)。 2005年に年間69勝を挙げ自身初となるリーディングトレーナーを獲得するなど、調教師としても活躍を見せていたが、福山競馬場の廃止に伴い、2013年4月1日付けで高知競馬場へ移籍した。 2018年11月4日、京都競馬第12競走第8回JBCレディスクラシックにディアマルコで中央競馬初出走(16頭立て16番人気15着)。同馬は同年のNARグランプリサラブレッド4歳以上最優秀牝馬に選出され、高知所属馬としては初の快挙となった。 調教師としての地方通算成績は12154戦1267勝(重賞33勝)・2着1335回・3着1326回・勝率10.4%・連対率21.4%(2021年6月28日時点)。 主な管理馬
人物・エピソード自身のみならず、父や叔父も福山競馬場の騎手・調教師として活躍し、一家揃って競馬界に携わってきた。息子も厩務員を務めており、アンガールズが出演するテレビ番組『元就。』(中国放送)に出演した事がある[4]。 主な厩舎所属者※括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
脚注
関連項目外部リンク
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