那賀郡 (静岡県)![]() 那賀郡(なかぐん・なかのこおり)は静岡県(伊豆国)にあった郡。 郡域古代の郡域は伊豆半島西岸、現在の沼津市井田から南伊豆町入間にかけてだと考えられている。和名抄には井田、那賀、石火の3郷があるが、平城京跡出土の木簡にはさらに射鷲、入間、丹科、都比の4郷が確認されている。これらは以下の通り現在の地名に比定されている。
郡衙の所在は分かっていないが、松崎町那賀の近辺には式内社が多く比定され、郡名郷の遺称地とも目されることから、当郡の中心地であったと推定される。 近世になって君沢郡が成立し、現在の伊豆市小下田以北が郡域から外れた。また元禄期に那賀川以南が賀茂郡に編入されたとされている。その結果、1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域にあたる。 歴史扶桑略記などに天武天皇9年(680年)に「駿河2郡を別けて伊豆国と為す」という記事があり、これは田方郡と賀茂郡のことだと考えられている。しかし藤原宮跡出土の木簡に「伊豆国仲郡」とあることから、遅くとも和銅3年(710年)までの間に仲郡が成立していることになる。はじめ仲郡と記したが、和銅6年(713年)好字令により那賀郡となった。この時期(平城京出土木簡)の表記として他に中郡、那可郡、奈賀郡がある。 中世には北部は井田庄、南部は仁科庄となっている。在地の有力者についてはほとんど分かっていない。北条五代記には明応2年(1493年)北条早雲の伊豆進攻の際に、土肥の富永氏、田子(西伊豆町)の山本氏、雲見(松崎町)の高橋氏らを従えたとある。このうち山本氏は北条水軍の中核的地位にあったとされる。 天正18年(1590年)徳川家康の江戸入城に伴い一帯は家康の領地となり、幕府領として伊豆代官、三島代官、韮山代官が支配することとなる。元禄の地方直し以後は旗本領、館林藩領、掛川藩領が増えていく。 近代以降の沿革
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脚注
参考文献
関連項目
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