野原四郎
野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981年1月3日)は、日本の東洋史学者。専攻は中国近現代史。 経歴
1903年、北海道札幌市で生まれた。生家は札幌市内で勧工場(現在の百貨店の前身)を営んでいた[1]。高輪中学、浦和高校文科丙類を経て、東京帝国大学東洋史学科に進学。同級には、江上波夫、増井経夫がいた。1930年、卒業論文『高蝶(中国古代の結びの神)について』を提出して卒業した。これは、フランスの東洋学者・マルセル・グラネの説を参照しつつ論じたものであった。
卒業後は史学会委員(有給)となった(1932年まで)。1930年、『史学雑誌』に郭沫若著『中国古代社会研究』の書評を発表。史学会幹部からは良い評価が得られなかったものの、翌1931年に偶然亡命中の郭沫若に東洋文庫で会い、同書について意見交換。1934年、治安維持法違反の容疑で杉並署に検挙された。1935年より1年間、東洋高等女学校に勤務。1936年から1937年の2年間は日の出高等女学校に勤務。 1938年3月に回教圏研究所が設立されると、研究員となった。この頃からアラビア語を学んだ。また、駒澤大学非常勤講師として教鞭もとった。1945年3月、再び杉並署に理由なく検挙された。
太平洋戦争終結後、1946年に中国研究所が設立されると常勤研究員となった。1966年、専修大学教授に就任。1974年3月、専修大学を定年退任。 学界では、1957年から10年間、雑誌『歴史評論』の編集長を務めた。1960年と1962年には現代中国学会代表幹事。1960年ごろに立ち上げられた「中国の会」に参加。この会は尾崎秀樹の普通社主宰で、野原、竹内好、橋川文三、安藤彦太郎、新島淳良、今井清一らをメンバーとした[2]。 1981年、脳梗塞のため死去。 研究内容・業績専門は中国近現代史。太平天国の乱や義和団の乱、西安事件などの研究に大きな功績を残した。主著に「アジアの歴史と思想」「中国革命と大日本帝国」、訳書にロジェ・ガロディ「現代中国とマルクス主義」などがある。また、イスラーム学・日本近代思想史の分野においても優れた論考がある。 著作著書共著
邦訳書
関連資料
脚注 |
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