野村 三四郎(のむら さんしろう、1865年11月13日〈慶應元年9月25日〉- 1933年〈昭和8年〉6月7日)は常陸国鹿島郡の日川砂漠を開拓した柳川宗左衛門秀勝の三男。大蔵省を経て田中鉱山の監査役を務めた。
経歴
第二代・柳川宗左衛門(秀勝)の三男[1]として常陸国鹿島郡若松村(現在の茨城県神栖市)に生まれ[2]、後に東京府・野村せいの養子となり野村家を継ぐ。1880年(明治13年)に東京へ出ると、浅草にある小永井小舟の私塾・濠西塾(濠西精舎)で漢学を学んだ。さらに中央大学の前身である法学院に入った後、中途退学[3]して1885年(明治18年)より大蔵省預金部に勤める[注 1]。1893年(明治26年)にこれを辞す[5]と田中長兵衛の田中商店に入店、会計主任を務めた[注 2]。
1901年(明治34年)11月、長兵衛の死去にともなってその長男・安太郎が二代目長兵衛を襲名し店を継いだ。1917年(大正6年)に組織が株式会社化され、1919年(大正8年)7月末、三四郎は田中鉱山株式会社の監査役に就任[7][注 3]。最盛時は国内銑鉄生産量の過半数を占めた田中家の鉱山製鉄事業であったが、第一次大戦後の不況や関東大震災の影響などもあり大きな負債を抱える。1924年(大正13年)3月、ついに会社は存続不能となり、事業は三井鉱山に引き継がれた。
その後、長男の茂は三井鉱山に勤め、三四郎は引退。1933年(昭和8年)6月7日[9]に亡くなるまで趣味の俳句を続けた。住所は東京市本郷区駒込曙町十二。戒名は廓然院釋大悟居士。台東区の永稱寺に埋葬された。
俳句
俳号は桃邨[10]。竹馬吟社同人。蔦風会等で活動した[9]。
「時雨雲 山より晴れて 湖の色」
「芒野の 風に醒めゆく 新酒哉」[11]他多数。
家族
- 養母・野村せい - 1845年頃の生まれ[注 4]。三四郎を養子として野村家を継がせた。
- 妻・てる - 1869年9月29日(明治2年8月24日)生まれ。東京府、斎藤森吉の長女[2][注 5]。
- 長女・まつ - 1889年(明治22年)生まれ。日本高等女学校を卒業し、三菱合資会社に勤める堀録亮に嫁ぐ[注 6]。
- 長男・茂 - 1899年(明治32年)7月生まれ。富士前尋常小学校[注 7]では一番の優等生とされ第一中学校へ進学[3]。明治大学商科を卒業し三井鉱山に勤めた。戦中の鉄鋼統制会参事を経て1947年11月より愛知製鋼東京出張所長[16][17]。妻・とく(1904年生)との間に長女・栄子(1927年生)あり[注 8]。
- 二男・豊治 - 1902年(明治35年)生まれ。昭和3年3月、慶應大経済学部卒。
- 二女・ひろ - 1907年(明治40年)に生まれ、東京女学校を卒業。清水組技師、高階政夫に嫁ぐ。
- 三男・文武 - 1910年(明治43年)2月25日生まれ[21]。明治薬学専門学校を卒業[5]し薬剤師となる。同校OBらによるMPC山岳会に属し、東京市電気局病院に勤務[22]。後に渋谷区の交通局病院で薬剤科長を務めた。
脚注
注釈
- ^ 「優等生と其家庭」[3]によれば1890年(明治23年)から1903年(明治36年)まで大蔵省とあるが、1901年発行の「日本紳士録 第7版」に田中商店員と記載[4]がある為これを否定し「茨城県紳士録」の数字を採用。
- ^ 当時の慣習としては極当たり前に、田中商店においても金銭を預かる会計係の任には主に親族が就いていた。店主・田中長兵衛の妻よき(1864年生)の養父の名が野村三四郎[6]であり、本項の野村三四郎はその後継の可能性が考えられる。
- ^ 取締役社長は田中長兵衛、専務取締役が田中長一郎、取締役には香村小録、中大路氏道、吉田長三郎。そして監査役が横山金治と野村三四郎[8]。
- ^ 1913年発行の「優等生と其家庭」[3]によれば祖母せつ子(68)とあるが、三四郎の祖母が当時68才では若過ぎる為、養母せいの可能性がある。
- ^ 「大日本婦人録」[12]や「人事興信録」によれば斎藤新八の長女。
- ^ 録亮は堀正意の後裔とされる堀永之進の六男[13][14]。長兄の鍼之丞(1863年生)は東大理学部を出て英国留学、ロンドン化学会員となり1890年に帰国。第一高等学校教授、及び尾張徳川家の家令を務めた[15]。
- ^ 明治27年9月、本郷区の富士前町にて創立。昭和20年2月の空襲により校舎を焼失し翌年廃校。跡地には文京区教育委員会によって富士前小学校跡の碑が立てられている。
- ^ 妻のとくは茨城県、林龍の三女(資料によっては二女)。義兄の池田良介(1887年生、妻は林龍の長女・さだ)は1910年のラサ島調査隊に参加し、翌年のラサ島燐礦合資會社創立時より勤める。1922年、南洋庁に籍を置くとアンガウル島で、次いでファイス島の鉱業所で所長を歴任した[18][19][20]。
出典