金岡又左衛門 (初代)![]() 初代 金岡 又左衛門(かなおか またざえもん、1864年2月29日(元治元年1月22日[1][2][3][4])- 1929年(昭和4年)6月10日[3][4][5])は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名・米太郎[3][4]。 経歴越中国新川郡新庄新町村[4](富山県上新川郡新庄町[1][3]を経て現富山市新庄町[4])で、薬種業・金剛寺屋又右衛門、たみ[注 1]夫妻の長男として生まれる[2][3][4]。1879年(明治12年)9月20日[6]、16歳で父が死去して又左衛門に改名し家業を継いだ[3][4]。1879年(明治12年)富山医学所に入学したが、1881年(明治14年)4月同校の廃校により退学を余儀なくされた[1]。その後、林周平から3年ほど漢学を学んだ[1]。 密田孝吉との出会いで電気事業に関心を持ち、1897年(明治30年)11月に富山電灯(のち日本海電気)を設立して社長に就任した[3][4]。また伏木港周辺に工場誘致を行うなど地域振興に尽力した[4]。その他、富山電気軌道取締役、第四十七銀行監査役、富山相互銀行(現富山第一銀行)、富山商工会議所会頭なども務めた[2][4]。 政界では、1889年(明治22年)6月、新庄町会議員に当選[1]。上新川郡徴兵参事員、上新川婦負両郡組合町村会議員、同常置委員、上新川郡全町村組合会議員、同郡常西用水町村組合会議員、富山県会議員、同議長、新庄町島村組合町村会議員などを務めた[1][2][5]。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙に富山県第一区から出馬して当選し、その後、第6回、第7回、第9回総選挙でも当選して、衆議院議員に4期在任した[5][3]。 人材の育成に関心を持ち、金岡家奨学金を設けて学生への育英事業を行った[3][4]。また、1889年3月に日本赤十字社に加盟し、終身社員、富山支部商議員を務めた[1]。その他、大日本武徳会地方委員[1]、第6代富山県図書館協会長[4]などを歴任した。 伝記
親族
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目 |
Portal di Ensiklopedia Dunia