金沢港
金沢港(かなざわこう)は、石川県金沢市の大野川の河口に位置し、日本海に面する港湾である。港湾管理者は石川県。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。 現在の港の部分を、金沢新港(かなざわしんこう)と呼ぶ場合もある[3]。 概要1970年(昭和45年)11月1日に開港(関税法上の開港年)[1][2][4][5]。韓国の釜山、中国の上海などを結ぶ外貿定期コンテナ航路が就航するほか、小松製作所の建機輸出用に北米向け多目的船が不定期寄港する。また、金沢港は日本海側における外航クルーズ客船の拠点港としての側面もある[6][7]。 2021年(令和3年)の貨物取扱量は、輸入751,554トン、輸出478,064トン、移出24,401トン、移入1,840,466トン、合計3,094,467トン[8]。輸入国・輸出国の割合は中華人民共和国・大韓民国・ベトナム・インドネシアなどアジア諸国が大半を占めている。このほかに、小松製作所の金沢工場が隣接している関係から[9]、ホイールローダーやダンプトラックなどの建設機械や産業機械の輸出が多いのが特徴となっている。 漁港や北陸地方の海産物集散地としての側面もあり、一般消費者も買い物ができる鮮魚市場「金沢港いきいき魚市」が設置されている[10]。 歴史古代においては、「大野湊」として『白山禅頂私記』の伝説に登場する。その後戦国時代から江戸時代初期にかけて近接する犀川河口の宮腰(現在の金沢市金石地区)の繁栄に押されていたが、北前航路の隆盛により宮腰とともに金沢の外港としての地位を築いた[11][12]。北前船とそれを受けた日本海航路の全盛時代は明治時代後期まで続いたが、鉄道の普及など陸上交通網の発達とともに衰退した[11]。 大正時代に入り、大野港を漁港として発展させようとする動きが起こる。1923年(大正12年)、石川郡大野町長の光谷次郎松が、金沢港を貿易港として発展させる構想を発表。帝国港湾協会の後援もあり、1933年(昭和8年)には金沢港築港が閣議決定される。1935年(昭和10年)には大野町が金沢市に編入され着工が期待されたが、第二次世界大戦により棚上げされた。 戦後も長い間棚上げされてきたが[13]、1963年(昭和38年)の三八豪雪により北陸地方の陸上交通がほぼ完全に途絶え[5][11]、金沢市内の石油が枯渇し急遽伏木港から取り寄せる事態となっていた[14]ことから、金沢での本格的な港湾建設の気運が急速に高まった[4]。建設予定地が粟崎海岸であったことから港湾計画課サイドは当初「重要港湾というより海水浴場」と揶揄し、不賛成の意見が強かったが、地元がこれを押し切る形で推進したことを受け、翌1964年から重要港湾として12か年計画(建設費152億円)で建設が進められた[14]。当時としては珍しい、日本最初の本格的な掘り込み式港湾であり[14]、浚渫された土砂は河北潟の干拓工事に使用された。 当初は主に木材港として構想されていたことから、1967年には臨海部に木材工業団地の造成も始められた[14]。 金沢港建設時に大野地区の大野町四丁目は、新港の水面で囲まれた島となった[15]。また、五郎島地区は金沢港の工業団地建設のため、隣接する粟崎町に集団移転した[16]。 年表
定期航路2022年時点で週9便が運航されている[37]。特記がないものはすべて週1便の運航。
施設金沢港には現在8か所の埠頭(岸壁)がある[5]。
港周辺
停泊船
交通連携協定を結ぶ港湾いずれもクルーズ客船の誘致に関する連携協定を結んでいる。 近隣港湾脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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