鈴木主税 (福井藩士)鈴木 主税(すずき ちから、1814年5月1日〈文化11年3月12日〉 - 1856年3月16日〈安政3年2月10日〉)は、幕末の武士(越前福井藩士)。諱は重栄、字は叔華。号は純淵、鑾城、小桜軒。通称が主税[1]。幼名は小三郎[2]。 経歴・人物福井城下に生まれる。父は藩士の海福正敬、母は八十子。鈴木長恒の養子になり、天保8年(1837年)11月29日家督を継ぎ450石、定座番外となる[3]。儒学者の前田梅洞、清田丹蔵に学び、吉田東篁と交流した。天保13年(1842年)8月11日寺社町奉行となる。木田荒地にあった「あおだ」という税を免除し、それに感謝した民が祠をつくり主税を祭って世直神社とした[4][5]。 弘化元年(1845年)2月9日側向頭取となり、嘉永元年(1848年)9月15日側締役、嘉永4年(1851年)2月16日近習になる。嘉永5年(1852年)6月17日金津奉行になる。嘉永6年(1853年)9月16日江戸で省略取調掛になる。嘉永7年(1854年)ペリーが再び来航すると、藩主松平春嶽はその調査を行った。主税も軍艦の様子を報告するほか、藤田東湖・鮫島庄助・津田山三郎に面会している[6]。同年大奥侍女削減に関わる。安政2年(1855年)1月9日学問所について取調掛になり[7]、藩校・明道館の創設にかかわる[8][9]。同年江戸に出た。半井仲庵が主治医となり、橋本左内が薬を処方し看病したが[10]、安政3年(1856年)2月10日江戸城下常盤橋の藩上屋敷で病死した[11][12][13]。東海道品川宿にある藩に所縁のある寺院の天龍寺に葬られた。 評価吉田東篁は「小三郎は撥乱反正の器」と[2]、熊本藩家老の長岡監物は「学術正大にして徳義智識備はるは重栄に如くはなし、余最も重栄に服す」[14]と述べた。横井小楠等と交流があり、藤田東湖が地震で亡くなった際には、水戸藩邸へ駆けつけ嗚咽した。東湖は真に豪傑というべき者は、鈴木主税と西郷吉之助と評した。 橋本左内を「冀くば天下の為に努力せよ」と抜擢した[15]。東湖の墓表を徳川斉昭が揮毫したことから、左内は主税の墓表を春嶽が書くよう中根雪江に進言した[16]。 明治31年(1898年)7月、正四位を贈られる[17]。昭和5年(1930年)3月9日孝顕寺で70年祭が行われ、昭和11年(1936年)12月25日世直神社(みのり1丁目)に「世直神祠碑」が建造され除幕式が行われた[18]。 ![]() ![]() 著作脚注
参考文献
外部リンク
関連項目 |
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