鈴木敬介鈴木 敬介(すずき けいすけ、1934年(昭和9年)6月28日[1] - 2011年(平成23年)8月22日[2])は、日本のオペラ演出家。 経歴東京出身。慶應義塾大学在学中から演出や振付、舞台監督の経験を積んだという[2]。オペラとの関わりの記録の初出は1961年(昭和36年)藤原歌劇団靑年グループ第15回公演、ラモー室内楽団・青年グループ提携公演イイノホールでのロルフ・リーバーマン作曲『女房学校』舞台監督である[3]。1962年にも、東京労音2・3月例会 文京公会堂・東京文化会館大ホールでのマスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』レオンカバッロ『道化師』舞台監督を務めている[4]。1963年(昭和38年)に日生劇場に入社。日生劇場のこけら落としとして招かれたベルリン・ドイツ・オペラ(カール・ベーム、ロリン・マゼール、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ等が来日)の公演で舞台監督をつとめ[2]、本格的にオペラの世界に入った[5]。のちに渡独しベルリン・ドイツ・オペラの演出助手になったことから推測するに、その際の影響はきわめて大きかったと思われる。その後、1964年(昭和39年)日生劇場ヒンデミット『ロング・クリスマス・ディナー』プーランク『人間の声』[6]ストラヴィンスキー『放蕩者のなりゆき』[7]で舞台監督。 1966年(昭和41年)日生劇場・二期会提携公演 モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』でオペラ演出家としてデビュー[5][8]。 1969年(昭和44年)からはベルリンに渡って、ベルリン・ドイツ・オペラ演出部に所属し、オペラ演出界の名匠として知られるグスタフ・ルドルフ・ゼルナー総監督に師事[5]。オスカー・フリッツ・シュウの薫陶も受けた[2]。 1970年(昭和45年)吉井澄雄、金森馨、小谷喬之助、三谷礼二、若杉弘等とともに第二国立劇場についての私的な研究会「劇場会議」を結成[9]。1971年(昭和46年)二期会 東京文化会館でのオッフェンバック『ホフマン物語』演出から日本楽壇に復帰。中でも1972年(昭和47年)二期会20周年記念 東京文化会館ワーグナー『ワルキューレ』(指揮:飯守泰次郎)や、1979年(昭和54年)二期会 東京文化会館モーツアルト『魔笛』(指揮:ヴォルフガング・サヴァリッシュ)は評価が高い[2]。団伊久磨『夕鶴』や松村禎三『沈黙』初演など日本オペラでも手腕を発揮した[2]。1982年(昭和57年)より洗足学園音楽大学客員教授[10][11]。1993年(平成5年)から1995年(平成7年)まで[2]日生劇場の芸術監督を務めた[12]。 2009年(平成21年)兵庫県立芸術文化センター フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』[13]まで、43年間にわたり、日生劇場、二期会、東京室内歌劇場、びわ湖ホール、兵庫県立芸術文化センター、洗足学園音楽大学、愛知県文化振興事業団、新国立劇場など、演出を手掛けた公演は200以上にのぼる[14]。 2011年(平成23年)8月22日、肝硬変のため死去。77歳没[5]。 同年11月12日、13日に日生劇場で開催されたNISSAY OPERA 2011『夕鶴』(指揮:下野竜也)は「鈴木敬介追悼公演」と題され、鈴木のもとで演出捕を務めていた飯塚励生が再演演出を行った[15]。 2012年(平成24年)8月20日には、鈴木の業績を称え、日生劇場で「鈴木敬介追悼コンサート-オペラ名曲の夕べ-」が開催され、鈴木に所縁のある演奏家が一堂に会した。出演者は以下の通り[16]。 歌唱:横山恵子、池田直樹、経種廉彦、伊原直子、臼木あい、大倉由紀枝、大島幾雄、小野和歌子、加賀清孝、勝部太、釜洞祐子、木村俊光、黒田博、小林一男、佐藤しのぶ、澤畑恵美、志村文彦、高橋啓三、永井和子、成田勝美、樋口達哉、平松英子、福島明也、宮本益光、東京オペラシンガーズ 指揮者の飯守泰次郎は「日本で少しでもオペラに関わったことのある方々はすべて、何らかの形で『鈴木敬介』という名前と関わりがあると言っても過言ではない」と記している[17]。 受賞歴
エピソード
脚注・出典
外部リンク
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