長坂好子
長坂 好子(ながさか よしこ、1891年(明治24年)5月29日[1] - 1970年(昭和45年)9月30日[1])は、日本の声楽家(ソプラノ)・音楽教育者。日本の洋楽の黎明期に優れた門下生を数多く育てた。 経歴愛知県名古屋市出身[1]。1914年(大正3年)東京音楽学校(現:東京藝術大学)卒業。三浦環に師事[2]。 1915年(大正4年)下半期だけでも5回の演奏記録があり[3]、同年10月29日に神田青年会館にて「二十世紀社主催 音楽会」に出演[4]。1916年(大正5年)11月16日には「皇后行啓演奏会」にて御前演奏をする[5]。1920年(大正9年)12月3、4日 東京音楽学校第39回定期演奏会、11日 南葵樂堂「ベートーヴェン[生誕]百五十年紀念 音樂會」に出演(指揮:グスタフ・クローン ソプラノ:長坂好子 ピアノ:小倉末子)[6]。1921年(大正10年)11月26日 東京音楽学校音楽会にて『汝は花の如し』を歌う[7]。レーヴェ夫人主催 女流声楽家大演奏会(出演者:長坂好子/立松房子/早川美奈子/渡辺宣子/岡見幾久子/武岡鶴代/斎藤英子/伴・ラウルトップ)に出演[8][注釈 1]。1924年(大正13年)11月29日 東京音楽学校奏楽堂でベートーヴェン『第九』を日本初演(東京音楽学校奏楽堂 指揮:グスタフ・クーロン 独唱:長坂好子 曽我部静子 澤崎定之 船橋栄吉 管弦楽:東京音楽学校)[9][10]。1929年(昭和4年)10月20日 日比谷公会堂・開場記念演奏会(ソプラノ:長坂好子 ピアノ伴奏:高折宮次 ピアノ独奏:小倉末子 ヴァイオリン・ピアノ二重奏:安藤幸子 レオニード・コハンスキー)[11]。1933年(昭和8年)12月14日 東京音楽学校第69回定期演奏会 日比谷公会堂 ブラームス『独乙鎮魂曲 作品45』 日本初演(指揮:クラウス・プリングスハイム ソプラノ:長坂好子 バリトン:澤崎定之)[12]。1942年(昭和17年)12月13日 グレゴリアン音楽学会主催第2回宗教楽大演奏会(日比谷公会堂 指揮:山本直忠 独唱:鈴木次夫 長坂好子 田中伸枝 薗田誠一 矢田部勁吉 混声合唱:武蔵野音楽学校 女声合唱:紫会 東京交響楽団)に出演。戦前の日本を代表するソプラノ歌手の一人として、洋楽史において重要な数々の演奏会のソリストを務め、活発に演奏活動をした。 音楽教育者としては、すでに1919年(大正8年)3月[13] - 1922年(大正11年)3月[14]の間には東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)において音楽を教えていることが確認できる。 1926年(大正15年)(1927年(昭和2年)4月としている資料もある。肩書は「音楽学校助教授」である[15]) - 1928年(昭和3年)文部省派遣留学生として[16]イタリアに留学、ソルディーニに師事。1934年(昭和4年)母校東京音楽学校の教授となる。1934年(昭和9年) - 1935年(昭和10年)再びイタリア、ドイツに留学した。その後東京音楽学校教授に戻り、後進を指導した。 1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールでは声楽部門の審査員の一人として携わった[17]。 また、女声合唱団「むらさき会」を組織[18]したり、「コーロ・フローラ」を指導している記録もある(1942年(昭和17年)5月17日 長坂好子指導コーロ・フローラ第8回演奏会 日本青年館)[19]。 戦時中は1942年4月18日に日本演奏家協会理事[20]、1943年8月には合併により日本音楽文化協会理事[21]となるが、戦局悪化に伴い1944年(昭和19年)に東京音楽学校教授の職を辞する[22]。 戦後は演奏活動から離れ、後進の育成に注力し、多数の優秀な門下生を育成した。 1970年(昭和45年)9月30日死去。79歳没。 門下生教育者として優れ、以下は全て長坂の門下生である。 関屋敏子[23]、大橋國一[1]、鈴木寛一[1]、岡部多喜子[1]、高柳二葉[24]、有村祐輔、呂赫若[25]、蝦名雅美[26]、松田トシ(松田敏江)[27]、浅野千鶴子[28]、杵島純子[29]、村井満寿[30]、石崎宏男[31]、比留間きぬ子[32]、横井和子[33]、安西愛子[34]、小島琢磨[35]、嶺貞子[36][37]、 家族夫は洋画家の長坂春雄 (1900-1973)[38][39] 著書主なディスコグラフィー国立国会図書館デジタルコレクションによる[37]。2枚のレコードは教育用レコードとして発売された。
掲載記事国立国会図書館デジタルコレクションによる[37]。
脚注
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