陸前浜街道陸前浜街道(りくぜんはまかいどう)は、明治時代初期に現在の国道6号に相当する街道のうち、東京都荒川区から宮城県岩沼市までの区間に付けられた名称。「陸前」という名称は街道の終点となる岩沼・仙台が陸前国に属することに由来する。現在では国道6号の別名として用いられている。 街道の歴史律令時代には畿内から現在の東北地方・三陸海岸までの太平洋沿岸には、「海道」あるいは「東海道」と名づけられた道があり、浜街道はこれらの一部に相当する。奈良時代にはすでに石城国に駅が設置されており、平安時代の『千載和歌集』に勿来関に関する歌が残されている。鎌倉時代になると、東海道の名は鎌倉以西の部分に限定されて鎌倉以北は浜街道または、浜海道と呼ばれるようになり、江戸時代には全般的呼称として浜街道の呼称が普及した[1]。さらに浜街道のうち常陸国以北、多賀城以南の部分は岩城相馬街道と呼ばれるようになった。 江戸時代には「藩領型呼称」が一般化したこともあり、この街道の呼称は藩ごとにまちまちであった。
浜街道は奥州街道に比べて平坦で降雪量が少ないにもかかわらず、参勤交代で浜街道を利用した藩は、街道上に居城がある磐城平藩や中村藩などに限られていた。これは街道の出発点である仙台藩および仙台藩以北の諸大名が、御三家である水戸藩領内の通過を敬遠して奥州街道廻りのルートを採ったことによる。また物流面においても、街道の北端に位置する阿武隈川河口の亘理郡荒浜からは、元和年間(1615年-1624年)に米沢藩の蔵米が恒常的に江戸に輸送されるようになり、寛文11年(1671年)には河村瑞賢による外海江戸廻りの東廻海運の起点となるなど、海路での運輸が主であった。 公道として街道の呼称が統一されるのは明治時代に入ってからで[3]、明治5年(1872年)4月29日に武蔵国の千住から陸前国岩沼までの太平洋岸の街道を今後「陸前浜街道」と呼ぶという通達が出されたことによる。結局、陸前浜街道の名が正式名称として用いられたのは明治18年(1885年)2月に国道に番号制度が導入されるまでのわずか13年間に過ぎなかったが、番号導入以後も五万分の一地形図をはじめとする公的な地図においても番号ではなく「陸前浜街道」の表記が用いられ[4]、また常磐線の取手〜藤代間をはじめとして、成田線・新金線と交差する踏切に「陸前浜街道踏切」「浜街道踏切」などの名称が付けられるなど、以後も陸前浜街道という呼称は使用され続けた。 1885年(明治18年)以後、陸前浜街道は、明治国道とよばれる第14号國道(東京日本橋 - 水戸)と第15号國道(東京日本橋 - 陸前国岩沼駅)に受け継がれ、大正時代に旧道路法が成立すると、1920年(大正9年)から大正国道とよばれる国道6号へと継承された[5]。 呼称陸前浜街道については、歴史・地理研究者や一般人の間でも「街道」の名称が付されるところから、江戸時代の街道と混同・錯覚されることがあるが[4]、通称や俗称的なものでもなく、正しくは明治政府により公用語として明治5年(1872年)4月29日に定められた公道名である[6]。
明治・大正・昭和の政府発行の地形図[注釈 1]に「陸前浜街道」と記入されていることから[4]、長久保 (1981) によれば、(1) 明治・大正年間に、陸前浜街道と同じ道路が「第十四号国道・第十五号国道」(明治国道)や「国道6号」(大正国道)と呼称が変わっても、これら政府発行の地形図には新しい道路呼称が記されることがはなく「陸前浜街道」と記され続けたこと。(2) 道路名に宮城県ではなく、大化の改新以後の律令制度による国郡制そのままの陸前国[注釈 2]の呼称を冠したことが錯覚・誤解の原因であると指摘している[4]。 また、陸前浜街道の別称として水戸上市[注釈 3]から宮城県・岩沼方面は「宮城県街道」、福島県から茨城県方面は「茨城県街道」、茨城県や千葉県では水戸上市から東京・千住大橋方面が「東京街道」と呼ばれた[7]。 路線状況明治期の陸前浜街道の道幅は、最大4間(約7.28メートル)で、最狭は2間(約3.64メートル)である[3][注釈 4]。しかし、松並木敷があると1間半ぐらいの細道になり、茨城県日立市の加幸沢付近に現在も残る[3]。 宿場以下の表の国名及び郡名は江戸時代当時のもの。
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目 |
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