須川湖 (長野県)
須川湖(すがわこ)は、長野県上田市大字諏訪形字須川[1]にある湖。江戸時代、もと沼だったところを改修して現在の姿になった[2]。 概要上田市中心市街地から長野県道186号上田塩川線を丸子(旧・小県郡丸子町)方面に進むと須川湖に至る。小牧山の山中、標高およそ700メートルの地点にあり、面積10万平方メートル、周囲長3キロメートル、水深は最大で4.6メートルである[3]。周囲はカラマツが明るい森林をつくり、植物の種類も数多い[2]。北の山には源義仲(木曾義仲)の築いた城があったという[4]。 古くは北・東・南の三方を山で囲まれた小さな沼であったが、1654年(承応3年)から1657年(明暦3年)にかけて農業用水確保のため西側に土砂(粘土)を盛り立て、ため池として改修された。仙石氏が上田藩の藩主を務めていた時代のことである。こうして誕生した湖水は、周辺集落の自給自足生活を支える水源として利用された[1][2]。 冬になると湖面が結氷し、スケートリンクとしても利用された。当地を一躍有名にしたのが1953年(昭和28年)に当地で開催された第21回全日本スピードスケート選手権大会である。その後もオール信州スケート大会や上田市民スケート大会が開催されたほか、小・中学生のスケート教室としても利用された[3]。しかし、結氷期間はそれほど長いものではなく、人工スケートリンクの開設や暖冬の影響もあって衰退し、1975年(昭和50年)ごろスケートリンクが廃止された[5]。その後は釣りやボートなど夏のレジャー開発に力が入れられ、モーテルや別荘、テニスコート、ゴルフ場などが整備された[3]。
伝承須川湖の底には信濃国分寺の鐘が沈んでいるという伝説がある。むかし、盗賊が国分寺から鐘を盗み出し、須川湖付近で一休みしていると、鐘が「国分寺恋しや」とひとりでに動き出し、湖に落ちてしまった。湖の主の竜はこの鐘の化身であり、湖で溺れそうになったときは「国分寺へ行く」と唱えると助かるとか[7]、どんな日照りでも干上がることがないといった話もある[8](水位が下がり鐘の竜頭が水面から顔をのぞかせると、その竜が雲を呼び雨を降らせるとされる)。また、湖に自生するヒシの実を指して、地元では「かねつき」と呼んでいたという[9]。 脚注参考文献
関連項目外部リンク
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