須藤善一郎![]() 須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日(文久3年9月18日[1][2])- 1937年(昭和12年)4月10日[1][2][3][4])は、明治から昭和初期の畜産家、実業家、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡本荘町長。幼名・広太郎[1]。雅号・寿堂、松園[1]。生涯、馬産改良に尽力した[2]。 経歴出羽国由利郡本荘中町[1](秋田県[3]由利郡本荘町[4]、本荘市を経て現由利本荘市[1]中町)で、大地主・須藤善太郎、ナオの長男として生まれた[1][2]。長安寺の寺子屋、本荘藩藩校を経て[1]、1877年(明治10年)小学校を卒業した[1]。以後、自宅に招いた教師から歴史、漢学、英語を修めた[1]。1879年(明治12年)9月、父が死去して家督を相続し善一郎に改名した[1]。1880年(明治13年)ころに同志を募って夜学講習会を立上げ会長に就任した[1]。 秋田改進党に設立会員として加わり1882年(明治15年)4月に設立した[1]。1889年(明治22年)4月、本荘町会議員に就任[1][3]。由利郡会議員にも当選[1][3][4]。1891年(明治24年)8月、秋田県会議員に選出され[1][3][4]、1898年(明治31年)3月まで在任し[1]、同参事会員も務め[2][3]、1895年(明治28年)9月に副議長となった[1][3][4]。 1898年3月、第5回衆議院議員総選挙(秋田県第3区、進歩党)で当選し[5]、同年8月の第6回総選挙(秋田県第3区、憲政本党)でも再選され[5]、最後は三四倶楽部に所属して、衆議院議員に連続2期在任した[3][4]。この間、馬産改良、鉄道建設などに尽力した[1]。 1907年(明治40年)9月、本荘町長に就任し2期在任し[1][2]、1927年(昭和2年)7月に再任され1期在任した[1]。この間、無報酬であった[1]。その他、本荘銀行取締役、秋田県農工銀行取締役、秋田汽船監査役、横荘鉄道取締役などを務めた[1][3][4]。 特に馬産の奨励と改良に尽力し[1][2]、繁殖用雌馬、種雄馬を購入し[1][2]、また、秋田県畜産協議委員、県畜産会会頭、由利郡産馬改良組合長などに在任した[1][4]。 北海道開拓にも携わり[1]、天塩郡遠別村(現遠別町)で177ヘクタール [1][2]、虻田郡虻田村(現洞爺湖町)で346ヘクタールの原野を取得して[1]、貸費小作人の入植により農地を開発した[2]。 人物相撲好きで知られ[1][2]、自宅に相撲場を設けて、大相撲巡業を幾度も開催した[1][2]。また、地元出身力士、光風貞太郎、國光鉄太郎の四股名を命名している[2]。 親族脚注参考文献
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