香取環
香取 環(かとり たまき、1938年10月21日[1] - 2015年10月12日[2])は日本の女優。本名・久木登紀子。別名・佐久間しのぶ。熊本県出身[3]。 1960年代から1970年代初頭にかけて、ピンク映画で活躍した。日本初のピンク映画『肉体の市場』に主演した事から、「ピンク女優・第一号」とも呼ばれた[4][3]。以降、1960年代のピンク映画界においてトップ女優として君臨した[3]。元夫は俳優の船戸順、ピンク映画監督の奥脇敏夫[1]。 経歴初期の経歴香取環は1938年に、熊本県の中流家庭に生まれた。父親は熊本で家族経営の製薬会社を営んでいた。ミスユニバースの熊本代表、全国大会で準ミスに選ばれた[3]後、日活第四期ニューフェイスに採用[5][6]。同期に赤木圭一郎がいる[5]。 その後、本名の久木登紀子名義で様々な作品に出演したが、端役ばかりで一向に芽が出なかった[3]。 『肉体の市場』1961年に日活を退社した[1]後、1962年(24歳の頃)に小林悟監督の『肉体の市場』で主演に抜擢。このオファーに対し、ドラマ部分がしっかりしていたことから出演を決めた[3]。映画の役名から名前を香取環に改める[5]。日本で初めての本格的なエロ映画『肉体の市場』は、警察に取り締まりされ、検閲・いくつかのシーンのカットを経て再上映された[7]。ピンク映画第一号(1960年代から1970年代にかけて日本を席巻した映画のソフトコアなポルノ映画[8])とされる『肉体の市場』は大ヒット。独立プロとして限られた配給にもかかわらず、800万円で製作された『肉の市場』は1億円を超える利益を獲得した[9]。 ピンク映画『肉体の市場』のヒットにより、いくつもの独立スタジオがピンク映画の製作を開始。香取もそれらの映画に主演すると、色白のグラマー体型(身長は165cmで、スリーサイズはB98、W62、H98だった)で、またたく間に人気女優となる[3]。後に彼女は「彼らは1本20000円で依頼してきた。あの日々に信じられない額だった。私の童顔とアンバランスな巨乳のため、主流の映画ではそんな額はもらえなかったが、それらの特徴はピンク映画が探し求めていたまさにそれだった」と話している[9][10]。 1966年頃より葵映画専属となり、西原儀一監督とコンビを組む。香取は西原について「演出に惚れ込んだ」と発言しており、当時の雑誌にも「乙羽信子と新藤兼人のコンビのよう」と評されたという[11]。Allmovieの批評家Robert Firschingは、このスタジオでの彼女の仕事について、「香取…西原のなすがままになり、葵映画スタジオでの4作品で5回もの乱暴なレイプを受けた勇気は勲章ものである」とコメントしている[12]。1969年よりフリー。 西原の他に若松孝二の『甘い罠』(1963年・若松のデビュー作)、『性家族』(1971年)、渡辺護の『おんな地獄唄 尺八弁天』(1969年)等、傑作・佳作を残した。 1971年、日活ロマンポルノ第一作『団地妻 昼下がりの情事』のオファーを受けるが、古巣であった日活がポルノ映画を撮ることに抵抗を感じ、断っている[13]。なお、実際に主演した白川和子は香取の付き人を担当していた時期があり[14]、メイク法や衣装の選び方などを教わった[3]。 引退1972年、ピンク映画から裸になることの物語の必然性が失われていきつつある(裸ばかりがクローズアップされる)事に嫌気が差し、映画業界から引退[15]。結果的に、1962年から1972年の間だけで600を超える映画に出演した[3]。 その後、三人目の夫と共に熊本の地元に移り、香取の父が経営する会社で働いた。この結婚で彼女は子どもを授かるが、またしても離婚した[9]。 三度の破局から、香取は自活することを決心。彼女は最初ガソリンスタンドを経営し、2006年には社員食堂を経営し始めた。香取は先駆的なピンク映画での役を回想し、「演技を楽しんだが、ピンク映画という職業の空気に慣れることは最後までなかった」しかし、「興行界での自分の時間について後悔はない。この卒業生のための役があるなら、演じるためにそこへ戻ろうと思っている」と発言している[9][16]。
作品の一部
テレビ出演
脚注
出典
外部リンク
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