鶴嶺八幡宮(つるみね はちまんぐう)は、神奈川県茅ヶ崎市浜之郷にある神社。別名は鶴嶺八幡社。
相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い[1]。また鶴嶺八幡宮によると、源氏が関東へ進出する際、創建した最初の氏社という。
由緒
長元3年(1030年)9月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠とする源頼信の子源頼義が下総の乱鎮定の折り、京都にある石清水八幡宮を懐嶋八幡宮として勧請した(宇佐神宮を勧請したとも)のが始まりであるという。後に源氏が現在の場所に分祀した。
天喜3年(1055年)に前九年の役の際に源頼義が祈願し勝利を収めると、康平6年(1063年)、戦勝に報いるため懐嶋八幡宮より分祀して鎌倉由比郷に鶴岡八幡宮の前身である元八幡を建立したという。その後、応徳2年(1085年)、源頼義の嫡男である八幡太郎義家が領地を寄進し、懐嶋郷の隣の浜之郷に鶴嶺八幡宮を創建した。この時期に元八幡の旧社であることから懐嶋八幡宮は本社宮と改称したという。
将軍源頼朝が治承年間に領地を寄進し、また建久年間にも頼朝は肥後国有為庄に鶴嶺八幡宮に700貫を寄進し、懐嶋権守平景能に修復を命じた。
建久2年(1191年)、大庭御厨の領主大庭景義が大仏殿や三重塔等を建て、鶴嶺八幡宮を再興した。同年、西隣りに伊予の三島の神を祀る佐塚明神社が建立される。
古くは別当寺の常光院に十二坊の宿坊が存在したが、各地に散らばった後に廃止となる。江戸時代の正保年間、常光院住職の朝恵が地頭・山岡景信と相計りで荒れ果てた社殿を修復した。またこのとき参道を整備したという。
慶安2年(1649年):3代将軍徳川家光が本村に7石の朱印地を与えた。江戸幕府崩壊後、明治時代になると神仏分離令により常光院が復飾し、祠掌となる。
その後、西側に隣接した佐塚大明神を合祀し、佐塚大明神の祭礼の浜降祭を主宰するようになった。下記の「年表」の1906年の項参照。
祭神
合祀
年表
祭事
境内
- 大銀杏
- 社殿脇にある大銀杏は源義家が、戦勝を祈願して自ら植えたという大銀杏で、樹齢約950年。1962年(昭和37年)10月2日、県指定天然記念物。1984年(昭和59年)12月、かながわ名木百選に指定されている。
- 宮鐘
- 神仏習合の名残を留める宮鐘。延宝8年(1680年)に最初の鐘が納められ、戦時中、鐘は兵器製造のため供出によって消失するが、戦後の1965年(昭和40年)、「平和の鐘」として、再び鐘が奉納される。
境内社
- 湘南淡嶋神社(ちがさき あわしまじんじゃ)
- 祭神:少彦名命・淡島神
- 鉾宮神社(ほこのみやじんじゃ)
- 祭神:鉾宮大神・古刀比羅命・須佐之男命
- 祭事:弥生祭(4月第一日曜日)
- 鶴嶺稲荷神社(つるみね いなりじんじゃ)
- 祭神:宇迦之御魂大神
- 祭事:初午祭(2月初午)
境外摂社
- 本社宮(ほんしゃぐう)
- 祭神:応神天皇
- もとは懐嶋八幡宮と呼ばれた。康平6年(1063年)、源頼義が懐嶋八幡宮を鎌倉に勧請し、鶴岡若宮(後の鶴岡八幡宮)を創建すると、その旧社にあたることから懐嶋八幡宮は本社宮と呼ばれた。また懐嶋郷矢畑村の鎮守となった。天保年間に現在地の南に移され、1927年(昭和2年)に現在地へ戻された。
- その他
- 松尾神明神社、柳島八幡宮、柳島海岸嚴島神社、円蔵神明大神、松尾神明神社、赤羽根神明大神、平太夫新田八幡宮、下町屋神明神社、三島大神、西久保日吉神社など
関連史跡
- 参道
- 大鳥居から社殿までを八丁参道といい。鶴嶺八幡宮から国道一号線(東海道)沿いを八丁松並木という。慶安2年(1649年)、江戸幕府の先例によって、七石の領地を与えられたのを機会に鶴嶺八幡宮の参道左右と馬場に松並木を植えられた。1969年(昭和44年)8月15日、市指定史跡、県指定天然記念物となる。
- 弁慶塚
- 源義経に仕えた僧兵の武蔵坊弁慶を祭った塚で、鶴嶺八幡宮参道脇にある。義経一族の霊を慰めるために造ったと伝わる。現存する塚は元の場所から1982年(昭和57年)に場所を少し移して作り直された。現在は私邸である。
- 南湖の左富士
- 江戸時代の浮世絵師・歌川広重が『東海道五十三次』の「南湖の松原左富士」に描いた。国道1号線・鳥井戸橋付近に南湖の左富士の記念碑がある。天保3年(1832年)、東海道の旅路、広重は鳥井戸橋を渡り、下町屋の軒並みから見える富士山を描いた。
交通
- JR東海道本線茅ケ崎駅北口からバス乗車、「鶴嶺小学校前」下車、徒歩1分。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク