1997年世界男子ハンドボール選手権
![]() 1997年世界男子ハンドボール選手権(1997ねんせかいだんしハンドボールせんしゅけん)は、1997年5月17日から6月1日まで、パークドーム熊本(熊本県熊本市)をメイン会場として開催された15回目の世界男子ハンドボール選手権である。 開催前開催決定までの経緯ハンドボールはヨーロッパ発祥のスポーツとして100年の歴史を誇り、ヨーロッパ諸国ではサッカー、ラグビーに次いで人気の高いスポーツであった。当然ヨーロッパ諸国の競技レベルも高く、世界選手権も毎回ヨーロッパで開催されていた。 しかし韓国女子チームがソウル(1988年)・バルセロナ(1992年)と五輪連覇を達成、また1993年男子ジュニア世界選手権でエジプトが優勝するなど、ヨーロッパ以外の国の台頭が著しかった。それに加えて国際ハンドボール連盟(IHF)加盟国が130を超えたことから(1997年時点で139ヶ国)、ハンドボールの世界的普及を目指すために、ヨーロッパ以外での世界選手権開催の機運が高まっていた。 1992年夏、日本ハンドボール協会(以下「日本協会」)副会長・渡邊佳英から熊本県ハンドボール協会(以下「熊本県協会」)に1997年男子世界ハンドボール選手権大会の招致提言があり、翌1993年1月から日本協会関係者が熊本県と熊本市に対して支援要請活動を開始。3月に熊本市、4月に熊本県に対して公式に協力を要請した。これを受けて熊本県協会は招致を正式に表明、6月26日に日本協会で承認された。9月9日にIHFに対し正式に立候補届を提出、9月21日には日本協会会長・斎藤英四郎を会長とする招致委員会が発足した。 9月25日にバーレーンで開催されたアジアハンドボール連盟理事会で立候補の旨を報告。11月にはクウェートで開かれたIHF理事会で「日本・熊本」をプレゼンテーション。この時にエジプトが立候補を表明したため、開催地の決定は史上初の決選投票に委ねられることとなった。 1994年2月、熊本県体育協会会長・八木繁尚を会長とする熊本招致委員会が発足。3月には熊本県がメイン会場となる屋内運動広場建設を発表した(1995年夏着工、1997年3月完成予定)。4月にはスイス・ローザンヌで開かれたIHF理事会で招致活動を行った。 9月にオランダ・ノルトベイクで開催されたIHF通常総会で最後の招致活動を行った後、決選投票が行われた。エジプトはヨーロッパとの距離的優位をPRしたが、治安の安全性や組織的能力、資金力が決め手となり、熊本が59票中44票を獲得。こうして1997年男子世界ハンドボール選手権大会の開催地は熊本に決定した。なお決選投票に敗れたエジプトは、その後1999年大会の開催地に決定した。 開催決定後大会のキャッチフレーズ・マスコットキャラクター・公式テーマソングが以下のように決定した。
また、プレ大会として以下の大会が開催された。
1996年5月からはフランス(前回優勝国)・日本(開催国)を除く各国による予選が翌1997年2月まで開催された。予選期間中の1996年12月6日、東京プリンスホテル(東京都港区)においてIHF立会いの下で公開抽選会が行われ、以下のグループでの予選開催が決定した。
大会結果予選Aグループ(パークドーム熊本)
予選Bグループ(熊本市総合体育館)
予選Cグループ(山鹿市総合体育館)
予選Dグループ(八代市総合体育館)
決勝トーナメント1回戦
準々決勝
順位決定戦
7位決定戦
5位決定戦
準決勝
3位決定戦
決勝
表彰選手
日本代表ハンドボール日本代表史上初の外国人監督であるオレ・オルソン(スウェーデン出身)は、"It is possible!(それは可能です!)"をチームの合言葉に、この大会に向けてスピードやテクニックを伸ばす一方、練習の合間に牛乳を飲ませたり、1日の食事を5回に増やすなど、体重を増やして体格に優れる欧州選手に対して当たり負けをしない体力作りをさせた。選手は平均で5-6kg体重を増加する事に成功した。この強化策が結実したのが決勝トーナメント1回戦、前回優勝国フランスとの一戦であり、オルソン監督は"Good day to die(死ぬにはいい日だ)"と選手達を鼓舞した。結果、試合終了のブザーとほぼ同時に奪われた決勝ゴールで、1点差で敗退したものの、後半15分まで5点をリードし、「あわや大金星か?!」と思わせる大健闘を見せ、会場であるパークドーム熊本に集まった観客がウェーブを起こすなど大いに湧かせた。 この大会に出場した日本代表メンバーは以下のとおり。
日本での放送について日本ではNHKが放映権を獲得し、BS1を中心に中継した。 |
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