2001年宇宙の旅
『2001年宇宙の旅』(にせんいちねんうちゅうのたび、原題:2001: A Space Odyssey)は、1968年の叙事詩的SF映画。 製作・監督はスタンリー・キューブリック、脚本はキューブリックとアーサー・C・クラーク。 物語はクラークが1951年に発表した短編小説「The Sentinel」(邦訳版タイトル「前哨」)ほかの作品を踏まえているが、直接的な「原作」は無かった。 映画公開後に発表された「小説版」は、脚本と同時進行で書かれた部分もあるとされるが、クラークは新編序文でノベライズではないと述べている。 実存主義、人類の進化、科学技術、人工知能、地球外生命体の可能性などをテーマに、未知の存在モノリスを発見した人類が、人工意識を持つコンピューターHALと共に木星に向かう航路で勃発した事件を描いたサスペンス。 様々な評価を受けていて、終末論や人類の進化、異星知性体への応答など、多岐にわたる。 従来の映画や物語の手法を避け、台詞の無い音楽だけの長いシークエンスがある。科学的に正確な惑星間宇宙航行の描写を先駆的な特殊効果で映像化しつつ、曖昧な印象を与えている。サウンドトラックには、リヒャルト・シュトラウス、ヨハン・シュトラウス2世、アラム・ハチャトゥリアン、リゲティ・ジェルジュなどのクラシック音楽が多数使用されている。 アカデミー賞では4部門にノミネートされ、キューブリックは視覚効果の演出で受賞した。 1991年、米国議会図書館によって「文化的、歴史的、美学的に重要」とみなされ、アメリカ国立フィルム登録簿に保存されることになった。最も偉大で最も影響力のある映画作品の一つとして広く知られている。 あらすじ人類の夜明け(THE DAWN OF MAN)人類が文明を築く400万年前(小説版では300万年前)、ホモサピエンスの祖先であるヒトザルが、荒野で飢えに苦しみながら生存競争を闘っていた頃。 ある日、ヒトザルたちの前に黒い石板のような宇宙人が残した物体「モノリス」[2]が出現し、サルたちは驚きながらも恐る恐るそれに触れる。やがて一体のヒトザル(月を見るもの)がモノリスの知能教育により、動物の骨を道具・武器として使うことに目覚め、獣を倒して多くの肉を食べられるようになる。 ヒトザルたちは、水場をめぐって対立する別のヒトザルの群れにも骨を武器として対戦し、敵のボスを殺害する。水場争いに勝利した「月を見るもの」が、歓びのあまり骨を空に放り上げると、これがカットつなぎで一瞬にして最新の軍事衛星に変わる(人類史を俯瞰するモンタージュとされる)[注 1]。これには核ミサイルが搭載されている[3]。 月に人類が居住可能になった時代アメリカ合衆国宇宙評議会のヘイウッド・フロイド博士は、月のティコクレーターで発掘された謎の物体「TMA・1」(Tycho Magnetic Anomaly, ティコ磁気異常1号)、通称「モノリス」(一枚岩)を極秘に調査するため、月面クラビウス基地に向かう。 途中、宇宙ステーション5(小説版では「宇宙ステーション1号」)でソ連の科学者たちに会い懇談するが、「クラビウス基地が閉鎖されているが、いったい何が起きているのか」と質問され、フロイド博士は回答を拒む。 月面基地に着いたフロイド博士は、会議室で今回の事態の重要性について訓示し、TMA-1の発掘現場へ向かう。調査中、400万年ぶりに太陽光を浴びたモノリスは、強力な信号を木星(小説版では土星)に向けて発した。TMA-1は、あのヒトザルたちが月に到達するまでに進化したことを告げるセンサーだった。モノリスの各辺の比は、1:4:9になっている。これは最初の自然数1、2、3の2乗である。これによって人工的なものであると認識できるようになっている[4]。 木星探査計画 18ヶ月後(JUPITER MISSION)宇宙船ディスカバリー号は木星探査の途上にあった。乗組員は船長のデヴィッド・ボーマンとフランク・プール隊員、出発前から人工冬眠中の3人の科学者と、史上最高の人工知能HAL(ハル)9000型コンピュータであった。 順調に進んでいた飛行の途上、HALはボーマン船長に、この探査計画に疑問を抱いている事を打ち明ける。その直後、HALは船のアンテナ部品=AE35ユニットの故障を告げるが、ボーマンがユニットを回収して点検すると、問題は見つからなかった。HALの異常を疑ったボーマンとプールは、その思考部を停止させることを決める。しかし、ふたりの密談を読唇して察知したHALが、それを阻止しようと乗組員の殺害を決行する。プールは船外活動中にポッドに衝突されて宇宙服を壊され、人工冬眠中の3人は生命維持装置を切られてしまう。別のポッドに飛び乗ってプールの救助に向かったボーマンは、遺体を回収して戻るが、HALに入船を拒絶され、止む無くプールの遺体を放し、ポッドのハッチを爆破してエアロックに突入する。 唯一生き残った乗員となったボーマン船長は、HALの思考部を停止させるべく、ユニットを取り外していく。HALは助命嘆願を繰り返すが、次第に知能を失い、遂には「デイジー」の歌を歌い始め、録音テープが失速するようにして止まる。すると、木星到着後に搭乗員全員に開示される動画が再生され、探査の真の目的であるモノリスの件をフロイド博士が語る。 木星と無限の彼方(JUPITER AND BEYOND THE INFINITE)ディスカバリー号が木星の衛星軌道付近に到達すると、ボーマンは近くに浮かぶ巨大モノリスを発見する。ポッドに乗って接近して行くと、巨大モノリスは漆黒の闇に消え、そのあたりの空間から発した光の奔流がポッドを呑み込み、宇宙の歴史が数分のうちに展開される。途中、7つの正八面体の形をしたモノリスの亜種が姿を現す[5]。 やがて、異星人が用意した閉鎖された王朝風の白い部屋にポッドごと到着すると、そこでボーマンは、年老いて行く自分自身を順々に発見する。遂には老衰してベッドに横たわるボーマンの前に、あのモノリスが現れ、彼がそれに向かって手を差し伸べると、光に包まれた胎児に変貌する。ボーマンは、人類を超越した存在=スター・チャイルドへと進化を遂げた。 そして胎児は太陽系へと戻り、地球を見下ろしながら、これから自分が成すべきことについて思いを巡らせるのだった[注 2]。 メカニック特筆しない限り、詳細部分に関する記述は小説版を参考としている。#小説版も参照。
キャスト
スタッフ![]()
作品解説1964年に公開された「Dr.StrangeLove」(邦題・博士の異常な愛情)で高評価を得たキューブリックは「宇宙人東京に現わる」(1956年)に触発され[7]、科学ノンフィクションを読み漁り、さらに意欲的な”語り草になるような良質の空想科学映画作品”の構想を練っていた。アーサー・C・クラークと互いの頭の中の知識をやり取りし、ファーストコンタクトを題材とした映画制作と小説(兼・脚本)の並行作業という形で話は決まり、クラークはホテル・チェルシー1008号室にて執筆に取りかかる。 撮影は1965年12月30日に開始し、イギリスのMGM-British Studios(ボアハムウッド)を中心拠点にして進められた。翌1966年5月までに俳優の演技シーンを撮り終えたが、SFXシーンの完成までさらに1年半以上を費やした。製作費は予定の600万ドルを大きく超過し1050万ドルに達した。 映画は70mmシネラマ規格で制作された。キューブリックは映像表現にシネラマスクリーンでの上映効果を最大限に狙っている。視覚効果では「Dr~」でB-52の特撮を担当したウォーリー・ビーバーズのほか、ダグラス・トランブル、コン・ペダースン、トム・ハワードなど少人数しかクレジットされていないが、実際には巨大なプロジェクトであり、視覚効果デザインの上で科学考証に多くの科学者、研究者が参加している上、撮影でも10年を経てイギリスで特撮チームを率いることになるブライアン・ジョンソン(『エイリアン』1、2)、ゾラン・ペリシック(『スーパーマン』)、マット画合成を担当したリチャード・ユリシッチを含むデザイナー、撮影や現像、合成、アニメーションのスペシャリストが多数参加している。 ディスカバリー号の乗員達が食べる宇宙食は、NASAが実際に開発して本作のために提供したものである。また本作に登場するコンピュータの設定や画面はIBMが全面協力しており、当初は随所に同社のロゴがあしらわれていたとされる。ただ制作中に「コンピュータが人間を殺害する」というストーリーであることが判明したため難色を示した同社は制作途中から手を引き、ロゴもすべて除去された[注 8]という通説が有名になっている[注 9]。アリエス1B型の計器盤およびディスカバリー号乗員が着用する宇宙服の左腕コンソールに取り残されたIBMロゴが確認できる。 当初キューブリックは美術担当として漫画家の手塚治虫の協力を仰いだが、当時の手塚は連載漫画の他に、連続テレビアニメの制作や原稿を多数抱え、日本国外での映画制作に携わることは物理的に不可能であったため、オファーを断った。「200名もの人間を食わせなければならないので」云々と云う主旨の返信を送ると、キューブリックは「家族が200人もいるのか?!」と驚嘆したという[8]。手紙自体は紛失してしまったが、封筒の写真は手塚のエッセイ本に掲載されている。 脚本キューブリックが、「クズと見なされない最初のSF映画」であり、「宇宙におけるヒトの位置を描く映画」を撮る企画をたてた1964年に、当初はアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』の映画化も構想したが、すでに映画化権が他社により取得されていた[9]。 その経緯もあり、キューブリックは共同での物語作り、科学考証、共同脚本などをクラークに依頼をした[10]。当初、キューブリックはラジオドラマ『太陽面の影』を元にした地球侵略物を提案していたが、クラークが、人類の進化を描き、宇宙への進出と異星人とのコンタクトでその進化がクライマックスに達する物語を提案した[11]。 クラークはすでに、宇宙人と人類のファーストコンタクトを描いた小説『前哨』を1948年に発表(ハヤカワ文庫の同名短編集などに収録)の他「地球への遠征」等の他4篇の短編小説を下敷きにしてプロットを組み上げて執筆した。後にクラークが発表した『失われた宇宙の旅2001』によると、キューブリックとクラークがアイデアを出し合い、先ずはクラークが「小説」としてアイデアをまとめあげ、その後キューブリックが脚本を執筆している。クラークは後に「そういう形で始まったが、最終的には小説と脚本は同時進行で相互にフィードバックする形で進められた。だから私は映画の試写を見た後にいくつかの章を書き直した。創作技法としては苦労が多いもので、これを楽しめる作家は滅多にいないだろう」と述べている[12]。 題名は仮題として『太陽系はこうして勝ち取られた』から『宇宙』、『星々へのトンネル』、『星からの贈り物』、『星のかなたへの旅』とかわり、最終的に『オデュッセイア』との共通点もありキューブリックの決断で現在の題名に変わった[13]。 映画製作の忙しいスケジュールの合間を縫ってキューブリックとクラークが小説について協力するのは難しかった。クラークは1964年末に小説の草稿を完成させ、1966年に予定されていた映画公開にさきがけて1965年に小説を出版する予定だった。しかし映画の公開は1968年にまで延び、小説もその後に完成した。小説の作者としてはクラークだけが記された。後にクラークは、キューブリックがクラークの作者としての影響を軽く見せかけるために状況を操作し、小説の出版が後になることで映画のノヴェライゼーションであるかのように見せかけたと不満を述べている。様々な理由から物語の詳細は小説と映画では異なっている。映画には個々の事象についてほとんど説明がない。一方クラークは小説版で全ての事象について因果関係を完全に説明している。ジェームズ・ランディが後に述べたところによると、映画の最初の試写の際に宇宙飛行士が11分間延々とジョギングしているシーン(公開版ではカットされている)を見た後の休憩時間にクラークが目に涙を浮かべて試写室を後にしたという。このシーンはキューブリックのアイデアで、宇宙旅行がいかに退屈なものかを示したのだという[14]。 撮影技術オープニングなどではモンタージュが駆使された[要出典]。カメラマン出身で撮影技術に長けたキューブリックは、SFX撮影スタッフと共に「フロントプロジェクション」や「スリットスキャン(スリット越しに被写体を、シャッターが開いた状態で撮影する技術)」といった新たな撮影方法を考案した[要出典]。 宇宙空間では大気が存在せず、遠くの物体も鮮明に見えることから、カメラのレンズを極限まで絞り込み、それによって不足した光量を補うために1フレームに4秒以上の超低速度撮影が使用されている。 作中、宇宙船のコンソール等の各所にワイヤーフレームによる3次元コンピュータグラフィックス風の映像が埋め込まれているが、それらは全て実物のコンピュータグラフィックスではなく、計算尺で計算して手作業で描いたアニメーションや、針金で作ったワイヤーフレーム風の立体モデルを撮影した映像などが用いられている(Sketchpadなど、まだ実物のコンピュータグラフィックスは研究室の時代であった)。 キューブリックは飛行機恐怖症のため猿人達のシーンをアフリカでは撮影できず、撮影班をアフリカに送って大面積のスチル写真を撮影し、スタジオでフロント・プロジェクションを使った合成を行っている。スターゲートの映像の中には色彩が加工されたモニュメント・バレーの空撮映像も含まれており、アメリカで行われるプレミアのため、キューブリックはアメリカに向かう船の中で編集作業を行った。 フロント・プロジェクションの導入はまだ一般的ではなかったが、1963年に邦画『マタンゴ』(監督:本多猪四郎)でも採用している。キューブリックは完璧を求めるため、3M社とも協力して効果的に鮮明な撮影を行った。先進的な取り組みであったが、画像を見ると空の部分に刷毛で塗ったような跡が見えている。(2018年の4Kリマスター版では、修正されている。) 画像合成の簡略化を図ったため、どの宇宙船も宇宙に浮かぶ地球や月や木星を画面内で滅多に横切らない。 本映画に登場する地球の姿は実際より青白くなっている。これは撮影当時大気圏外からの地球の姿を撮ったカラー写真が1954年10月5日にエアロビーRTV-N-10bにより撮影された高度257kmからの117枚モザイク写真と1965年3月18日にボスホート2号が地球衛星軌道から撮影したものしか存在しなかったからである(初の地球全球写真はジョンズ・ホプキンス大学応用物理研究所のDODGEにより1967年9月20日に撮影され同年11月10日に発表されたがこの写真は映画制作には間に合わなかった)。本映画に登場した地球の色はボスホート2号が撮影した地球の色とよく似ている。 小説版では土星だが特撮部が土星を制作するもののキューブリックが納得できる基準に満たなかったため本作では木星に設定変更された。 本作で使用された宇宙船の模型は他作品への流用を防ぐため、キューブリックの指示で図面も含めて廃棄処分されたことから資料が少なく、舞台となるディスカバリー号でも撮影に使われた模型の全長が57フィートと54フィートの説があり、左側面は資料が存在しないなど不明な点が多い。2018年10月25日には海洋堂が研究書の写真などからディテールを補完した1/10スケールモデルの受注生産を開始した際には54フィート説を採用した[15]。なお『2010年』の撮影に当たっては『2001年』の映像を参考に約100mと設定された模型が新規に作成された。現存するのはアリエス1B型月シャトルのみであり、アメリカ映画芸術アカデミーが所有している。 音楽それまでのSF映画では未来的イメージの電子音楽などが用いられることが多かったが、当作品の映画版では、全篇にわたってクラシック音楽の名高い楽曲が数多く用いられている。 音楽を選定するのにあたり監督はスタッフに対していろいろなジャンルのレコードを集めさせたが、その時の指示としては「ミュジーク・コンクレートのようなゴミはいらない」との指示を出している[16]。 ジェルジ・リゲティには一切映画についての説明や承諾もないまま、彼の曲を4曲採用した。リゲティが印税を受け取ったのは、1990年頃になってからだという。 なお、(1)メインタイトル、(2)「人類の夜明け」、(3)ラストと合計3回使われている『ツァラトゥストラはかく語りき』の演奏はヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のデッカ・レコード録音版だが、デッカ(1968年当時は日本国内ではロンドン・レーベル)が演奏者名を出さないことを許諾の条件としたので、映画のエンド・クレジットでは曲名しか表示されていない。 終盤ボーマン船長が年齢を重ねていくシーンでは、BGMに『南極交響曲』を使用したバージョンもつくられた。 「入場曲」および休憩時「間奏曲」の『アトモスフェール』、「退場曲」の『美しく青きドナウ』は、映像ソフトでは1989年発売のクライテリオン版LD-BOX[17]まではカットが慣例化しており、休憩のクレジット自体も初期の映像ソフトではカットされていた。 使用された音楽
未使用となった音楽キューブリックは当初、自分の監督作品『スパルタカス』の音楽を手がけたアレックス・ノースに作曲を依頼し、前半部分まで完成したスコアの録音まで完了していた(この最中にノースは過労で倒れてしまった)。しかしそれ以降は一切の連絡もないままノースの音楽を没にし、リヒャルト・シュトラウスなどの音楽に差し替えてしまう。ノースがそのことを知ったのは、試写会の会場であった。ノースはこれに激怒し、訴訟寸前にまで至った。ノースの死後、友人のジェリー・ゴールドスミスは没になった彼の音楽を録音[18]し、1993年10月12日にヴァレーズ・サラバンド・レコーズから『Alex North's 2001 』(VSD-5400)としてCD発売した[注 10]。日本でも『2001年〜デストロイド・ヴァージョン〜』(1993年12月1日発売、サウンドトラック・リスナーズ・コミュニケーションズ(SLC)、SLCS-5021)のタイトルで発売されている。 更に、1968年に録音されたアレックス・ノースのオリジナル・スコアのマスターテープが発掘され、2007年1月26日に Intrada Records より『Music for 2001: A Space Odyssey (The Original Score by Alex North) 』としてCD化され[19]、3000セット限定で発売された。 →詳細は「en:2001: A Space Odyssey (score)」を参照
公開当初予定の1966年から1年4か月遅れ、アポロ11号が月面着陸を果たす前年の1968年に公開された。ワールドプレミアは1968年4月2日にワシントンD.C.のアップタウン劇場で行われた。アメリカでの一般公開日は1968年4月6日、イギリスでの公開は1968年5月15日だった。度々再公開されており、2014年11月イギリスでの再公開にあたってはアルフォンソ・キュアロン、クリストファー・ノーランによる賛辞が予告編に盛り込まれている。 日本での公開日本においては、テアトル東京、名古屋の中日シネラマ劇場、大阪のOS劇場で封切られた。 《前夜祭》1968年4月10日 18:00からテアトル東京で、特別有料試写会と銘打って前夜祭の趣きで公開されたのが最初である。 《封切り》1968年4月11日からが正規の一般公開である(~9月18日まで)。テアトル東京での上映時間は、【平日・休日共】12:20/15:40/19:00。 《凱旋興行》更に、年末の各紙誌ベスト・テンの高評価を受け、翌春(1969年3月1日~4月4日)、「凱旋興行」と銘打ってテアトル東京で再上映された。上映時間は、【月~土】13:00/16:00/19:00。【日・祝】10:00/13:00/16:00/19:00。 《2番館》東京では、「凱旋興行」のあと、1969年5月25日から東宝洋画系TYチェーン(白系)の9館で、『汚れた7人』との併映で2本立て公開された。 その後、初公開から10年後の1978年に再びロードショー上映され、折からのSFブームをフォローアップする形となった。作品の設定年である2001年にも「新世紀特別版」としてノーカット版で公開されている。このヴァージョンでは、本来35mmフィルムでアナモフィック・レンズを使用して再現されるスコープサイズのアスペクト比の1:2.35とせず、35㎜フィルムの上映で70mmのオリジナルと同一のアスペクト比1:2.20を再現している。 2018年10月、6〜7、11〜14日に国立映画アーカイブで70mmニュープリントフィルムでの同作の特別上映が行われた[20]。10月19日から二週間限定で70mmフィルムからリマスタされた物がIMAXデジタル・シアター・システムを備えた映画館で公開された[21]。 【参照】『2001年宇宙の旅』の日本での上映実績のまとめ https://kubrick.blog.jp/archives/52256322.html 反響・評価公開当時、台詞や説明を極力省き、視覚表現で観客の意識に訴えるという作風は極めて斬新であった。映像のクオリティーや「人類の進化と地球外生命の関係」という哲学的なテーマを賞賛する声の一方、抽象的な内容や非常に難解な結末を批判する意見もあり、賛否の渦が巻き起こった。それでも、公開当時の1968年における年間世界興行収入で1位を記録。現代では映画史におけるSF映画の古典として認識されており、日本の文部科学省が「特選」に指定している、唯一のSF映画としても知られている。
作家 レイ・ブラッドベリは本作試写を観た後、映像美を褒めながらも「クラークはクーブリックにレイプされたんだ」と評した。このブラッドベリによる評を人づてに聞いたクラークは「それは違う、レイプされたのはお互い様だったんだよ」とコメントを残している。 初公開の年の暮れ、1968年12月、アポロ8号が史上初めて有人で月の裏側を廻って帰還したが、その時撮影された月面入れ込みの地球の写真が本作のそれにそっくりで、改めて本作の特撮のクオリティが示された。また、そのアポロ8号の船長の名がフランク・ボーマンで、本作の登場人物のふたり、フランク・プールとデヴィッド・ボーマンを合成したような名前であることが、偶然とはいえ話題になった。[注 12] デビッド・ボウイの若き日を描いた映画『スターダスト』の冒頭では、本作のスター・ゲイト突入から白い部屋への到着までを、夢の中のシーンとしてパロディ化している。 公開時からオールタイムで本作品は高く評価され続けている。1991年にはアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。 ランキング映画史上のベスト・ランキング、オールタイム・ベストなどでは、必ずと言っていいほどランクインしている。
以下は日本でのランキング
受賞本作は1968年のアカデミー賞特殊視覚効果賞を受賞、また1969年のヒューゴー賞も受賞した。 小説版小説版が原作として先に書かれたものであると勘違いされることが多いが小説は映画の公開(1968年4月)の後(同7月)に発表されている。クラーク自身も配給前の出版を目指していたが3分の2を書き終えた時点で最終章の執筆は遅々となったとされる、その小説にはクラーク独自の解釈がかなり取り入れられていることからも、小説版と映画版は明確に区別する必要がある。 HAL 9000の反乱の要因やラストの展開も、小説版は論理的に説明づけられているのに対し、映画版は謎めいた展開となっている。当初キューブリックは、難解なストーリーの内容の観客への理解を促すために、映画全編にわたって説明用のナレーションを多数書き上げていた。また、冒頭に科学者などによるインタビューが入るはずだった。科学考証の天文学者フレデリック・オードウェイには反対されたが、映画ではそれらは全く使われることはなかった。「言葉で説明をしてしまうと、せっかくの未知の世界との遭遇が、陳腐なものになってしまうから」とキューブリックは判断したのだ。キューブリックはこれをモナリザを例に説明している[23]。結果、何の説明もない映像が映画全編にわたり続くことになった。 ヒトザルとモノリスの遭遇は小説では300万年前という設定だが、映画では400万年前とされているなど、細かな点の相違は多い。小説ではディスカバリー号には放熱板(「放射翼」)、それもかなり大きなものが付いている設定になっているが[24]映画のディスカバリー号には付いていない。ある解説[25]によれば、宇宙なのに(空気を前提とした)翼なんて、と思われるのを恐れて、映画版では付けていないのだという。 後にクラークが執筆した『2010年宇宙の旅』はパラレルワールドとされ、ストーリーの多くの部分は続編の形を取りながら、主な舞台は木星周辺となっており、そこだけは映画版と同一になっている。「宇宙の旅」シリーズは、更に『2061年宇宙の旅』『3001年終局への旅』と、計4作執筆されており、シリーズ作品全ての作中設定は前作までの多くの部分を踏襲してはいるが、基本的にはパラレルワールドであるとあとがきやまえがきで触れられている。 小説版は映画の製作と並行して書き進められたが、その過程で多くの草稿が日の目を見ずに終わった。のちにクラークは、それらをまとめて編纂し『失われた宇宙の旅2001』として出版した。そこでは、例えば、「HAL9000は最初、人型ロボットとして構想された」とか、「なぜボーマンが結末で赤んぼうになるのか、(中略)これは成長段階における彼の自己イメージなのだ」といった興味深い記述が見られる。 1999年に出版された A Space Odyssey の特別版にはクラークによる小説と映画のリリースまでの経緯を詳細に記した文章が序文として掲載された。 邦訳
サウンドトラック盤
収録内容
収録内容
収録内容
備考
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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