305便はワシントンD.C.からシアトルへ向かう空路で、ミネアポリス、グレートフォールズ(英語版)、ミズーラ(英語版)、スポケーン、ポートランドを経由していた[15]。太平洋標準時午後2時50分、旅客機は予定通りポートランドを飛び立った。旅客機には定員の3分の1程度が搭乗していた。離陸してまもなく、クーパーは自分の最も近くにいた客室乗務員であるフローレンス・シャフナー (英: Florence Schaffner) にメモを渡した。シャフナーは機体尾部のエアステア (昇降用階段) のドアに取り付けられた補助席に座っていた[3]。シャフナーは、メモは孤独なサラリーマンが自分の電話番号を綴ったものだろうと考え、メモを開かずにハンドバッグに入れた[16]。クーパーはシャフナーの方に体を傾けると、次の言葉を囁いた。"Miss, you'd better look at that note. I have a bomb."[17] (「君、そのメモを読むのが身のためだ。俺は爆弾を持っている。」)
メモはフェルトペンで丁寧に書かれており、全て大文字だった[18]。メモはクーパーが返却を要求してきたため、実際にどう書いてあったかは不明である[19][20]。しかし、シャフナーの記憶によれば、ブリーフケースの中に爆弾が入っているというようなことが書いてあったという。シャフナーがメモを読むと、クーパーはシャフナーに自分の隣に座るように言った[21]。シャフナーはその言葉に従い、それから爆弾を見せるように冷静に頼んだ。クーパーはブリーフケースを開けて、中身を一目見るだけの時間を与えた。中には赤い円筒形の物体が8本入っていた[注釈 1]。4本の上に別の4本が置かれている状態だった。物体には赤い絶縁材で覆われたワイヤーと、大きな円筒形の電池が付いていた[23]。(しかしこれらの爆弾は偽物だったという説もある。)クーパーはブリーフケースを閉じると、自分の要求を伝えた。現金20万ドル ("negotiable American currency"、「交換可能なアメリカの通貨」で払うように指示した)[注釈 2]、パラシュート4つ (2つはメイン、残りの2つは予備)、旅客機が到着したときに燃料を補給するための給油車をシアトルで待機させることである[25]。シャフナーはクーパーの指示をコックピットにいる操縦士に伝えた。シャフナーが戻ってくると、クーパーは黒いサングラスを身につけていた[3]。
操縦士のウィリアム・スコット (英: William Scott) はシアトル・タコマ国際空港の航空管制官に連絡をとり、管制官は地元警察とFBIに通報した。他の36名の乗客には、シアトルへの到着が機械の軽度のトラブルにより遅れているという偽の情報が与えられた[26]。ノースウエスト・オリエント航空社長のドナルド・ニューロプ (英: Donald Nyrop) は身代金の支払いを承認し、全従業員にハイジャック犯の要求に十分に協力するように命じた[27]。旅客機はピュージェット湾上空を約2時間旋回し、その間にシアトル警察(英語版)とFBIがパラシュートと身代金を集め、救急隊員を動員した[3]。
客室乗務員のティナ・マックロー (英: Tina Mucklow) によると、クーパーは地元の地理に詳しそうだったという。旅客機がタコマ上空を飛んでいたとき、クーパーは下はタコマのようだというような発言をした。クーパーはマッコード空軍基地(英語版)はシアトル・タコマ空軍基地から (当時は) 車でほんの20分の距離であるとも発言したが、これも正しかった。シャフナーによると、クーパーは穏やかで、礼儀正しく、上品な言葉遣いで、当時一般的に認知されていたハイジャック犯のステレオタイプ (激高した冷酷な犯罪者、キューバへ向かおうとする反体制派) とは全く違っていたという[3]。マックローは、クーパーは神経質ではなかったと述べた。感じの良い人物に見え、冷酷な態度をとったり不快な言動をしたりすることもなく、常に思慮深くて穏やかだったと語った[3]。クーパーは2杯目のバーボンのソーダ割りを頼み、飲み物の代金を支払い、マックローに釣銭を与えようとした[3]。シアトルに留まっていたときには乗員のための食事を要求した[28]。
太平洋標準時午後5時24分、クーパーは自分の要求が叶えられたと知らされた。同午後5時39分、旅客機はシアトル・タコマ空港に着陸した[31]。日没から1時間以上経過した頃、クーパーはスコット操縦士にタキシングを指示して照明が明るいエプロンの孤立した区画へ移動させ、警察の狙撃手を妨害しようと客室内の窓掛けを全て閉めさせた[32]。ノースウエスト・オリエント航空のシアトル運用管理者アル・リー (英: Al Lee) は要求された物品を運んで航空機へ近づいた。リーは航空会社の制服ではなく普段着に着替えており、制服だと警官に見誤られるのを防号とした。機体尾部のエアステアから身代金を詰めたナップザックとパラシュートをマックローに渡し、クーパーは受け渡しが完了すると乗客全員とシャフナー、主任客室乗務員のアリス・ハンコック (英: Alice Hancock) に機外に出るように命じた[33]。
午後7時40分ごろ、ボーイング727はクーパー、スコット操縦士、マックロー客室乗務員、ラタクザック副操縦士、航空機関士のH・E・アンダーソン (英: H. E. Anderson) の5名だけを乗せて離陸した。2機のF-106がマッコード空軍基地から緊急発進し、クーパーの視界に入らないように1機は目標の旅客機の上方に、残りの1機は旅客機の下方を飛んで追跡した[39]。空軍州兵の任務中に緊急行動に移り、追跡を始めていたT-33練習機は、燃料が少なくなりオレゴン州とカリフォルニア州の州境近くで後戻りした[40]。ハイジャックされた旅客機を追跡していた航空機は全部で5機あり、クーパーが旅客機から飛び降りたところを見たとの報告は1機もしておらず、クーパーが着陸した地点を示すことはできなかった[41]。
クーパー事件から1ヵ月後、FBIは身代金の紙幣の通し番号の一覧表を金融機関やカジノ、競馬場、その他大規模な金の取引が日常的に行われる事業所、さらには世界中の法的機関に配布した。ノースウエスト・オリエント航空は身代金を回収した場合、その15%、最大2万5千ドルの褒賞を提供すると申し出た。1972年前半、アメリカ合衆国司法長官のジョン・N・ミッチェルは一般の人に身代金の紙幣の通し番号を公表した[71]。1972年、2人の男性がクーパー事件の身代金の通し番号が印刷された偽の20ドル紙幣を利用して、ニューズウィークの記者のカール・フレミング (英: Karl Fleming) から偽のクーパーとのインタビューと引き換えに3万ドルを騙し取ろうとする事件が発生した[72]。
1973年前半、身代金は依然として行方不明であり、オレゴン・ジャーナル(英語版)は身代金の紙幣の通し番号を再発布し、自社やFBIの事務所に身代金の紙幣を最初に届けた人に1千ドルを提供すると申し出た。シアトルでは、シアトル・ポスト・インテリジェンサー(英語版)が同様に5千ドルの懸賞金の提供を申し出た。これらの懸賞金の申し出は1974年の感謝祭の日まで有効だった。似た通し番号の紙幣は送られてきたが、完全に一致するものは発見されなかった[73]。ノースウエスト・オリエント航空の保険会社のグローバル・インデムニティ (英: Global Indemnity Co.) はミネソタ州最高裁判所(英語版)の命令に従い、ノースウエスト・オリエント航空の身代金に対する支払請求に対して18万ドルを支払った[74]。
後の展開
後の分析で、最初の着地地点の推定は正確ではなかったことが判明した。クーパーの飛行速度と高度の要求に応じるため、スコット操縦士は飛行機を手動で飛ばしていた。後にスコット操縦士は、飛行経路は最初の推定よりも著しく東の方にあったことを確認した[7]。305便の4分後に飛んでいたコンチネンタル航空機の操縦士のトム・ボアン (英: Tom Bohan) を筆頭に、様々な情報源から新たなデータが得られた。これにより、着地地点に影響する風向の推定に誤りがあり、80度もずれていた可能性があると判明した[75]。さらに他の補助的なデータも加えて、実際の着地地点はおそらく最初の推定よりも南南東の地域であると推定された。その場所はワシューガル川(英語版)流域にある[76]。
1980年2月10日(日曜)、バンクーバーから川の下流およそ14km、アリエルの南西32kmのところに「ティナ・バー」と呼ばれる海岸地帯があり、8歳のブライアン・イングラム (英: Brian Ingram) は家族とともに、そのコロンビア川に面した地点で休暇を過ごしていた。イングラムがキャンプファイヤーの火炉を設けようと砂地の川岸を熊手でかいていると、クーパー事件の身代金の紙幣3束を掘り当てた。紙幣は著しく劣化していたが、紙幣を束ねる輪ゴムはしっかり残っていた[81]。FBIの技官はその紙幣が正真正銘の身代金の一部であると確認した。2束は20ドル紙幣100枚、1束は90枚で、全てクーパーに渡したときと同じ連番で重なっていた[82][83]。1986年、交渉を長く続けた末に、捜査陣に回収されていた証拠の紙幣は、少年とノースウエスト・オリエント航空の保険会社の両者で等分された。FBIはそのうちの14枚を証拠として保持した[71][84]。2008年、イングラムはその紙幣のうち15枚をオークションにかけ、約3万7千ドルで売却した[85]。
2009年3月、FBIは、シアトルにあるバーク自然史文化博物館(英語版)の古生物学者のトム・ケイ (英: Tom Kaye) が調査団を結成していたことを公開した。団員にはサイエンティフィック・イラストレータのキャロル・アブラクジンスカス (英: Carol Abraczinskas)、金属工学者のアラン・ストーン (英: Alan Stone) が含まれる。後に「クーパー・リサーチ・チーム」(英: Cooper Research Team)[93]として知られるようになる調査団は、GPSや衛星画像、その他1971年には使用できなかった技術を用いてクーパー事件の重要な要素を再調査した[86]。埋まっていた身代金の紙幣やクーパーの着地地点については新しい情報はほとんど得られなかったが、電子顕微鏡を用いてクーパーのネクタイに付着していた数百の微小な粒子を発見し、分析にかけることができた。粒子の中からヒカゲノカズラ属(英語版)のシダ植物の胞子 (調合薬に由来する可能性が高い) が特定され、ビスマスやアルミニウムの破片も特定された[94][95][96]。
クーパーはシアトルに詳しかったようで、空軍の退役軍人だった可能性があった。これは、飛行機がピュージェット湾を旋回中に、クーパーは機内からタコマ市の存在を認識していたという証言や、マッコード空軍基地がシアトル・タコマ国際空港から車で約20分の距離にあるとマックローに話したことに基づいている。マッコード空軍基地と空港との距離はほとんどの一般人は知らなかっただろう[40]。また、クーパーの経済状況は絶望的な状態だった可能性が非常に高い。FBIの元主任捜査官のラルフ・ヒンメルスバッハ (英: Ralph Himmelsbach) によると、強要罪などの多額の金を強奪する犯罪はほぼ必ず大金が至急必要であることが動機であるという。そうでなければ、犯罪にそれほどの危険を冒す価値はない[104]。もしくは、クーパーはそれが可能であることを証明したかったためだけに高所から飛び降りたスリル狂いだった可能性もある[105]。
捜査官たちは、クーパーは自身の偽名を人気のある1970年代のベルギーの漫画シリーズからとったという仮説を立てた。その漫画にはダン・クーパー(英語版)という名前の架空のヒーローが登場する。漫画のクーパーはカナダ空軍のテストパイロットで、数多くの冒険を繰り広げており、その中にはパラシュートで降下するシーンもあった (FBIのウェブサイトに転載されていた漫画の表紙の1つには、漫画のクーパーが落下傘兵の装備を全身に纏ってスカイダイビングしている様が描かれている)[86]。この漫画は英語に翻訳されたことがなく、アメリカに輸出されたこともなかった。ハイジャック犯のクーパーはヨーロッパでの仕事の際にこの漫画を知ったのだろうと推測された[86]。クーパー・リサーチ・チームは別の可能性を提案している。クーパーはカナダ人であり、カナダでこの漫画を見つけたというものである。フランス語を話す人口が比較的多いカナダではこの漫画が販売されていた[106]。また、クーパー・リサーチ・チームは、クーパーは身代金を求めて"negotiable American currency"を要求したことに言及した[25]。アメリカ人が自国の通貨について「アメリカの通貨」と表現するのは不自然であり、このような言い回しはアメリカ人ならば滅多に使用しない。目撃者によると、クーパーの英語に独特の訛りは見られなかったという。そのため、もしクーパーがアメリカ人ではなかったら、アメリカとほぼ同じアクセントの英語を話すカナダの出身である可能性が高いという[107]。
FBIはクーパーはスカイダイビングについての技術や経験に乏しかったという結論を出した。2006年から解散される2016年までFBIの調査チームを率いていたラリー・カー (英: Larry Carr) 特別捜査官によると、FBIは当初はクーパーはスカイダイビングの経験が豊富であり、もしかしたら空挺兵かもしれないとさえ考えていたが、数年後にその考えは誤りであるという結論に至ったという。フラップが15度で、荷物が軽かったボーイング727はおそらく時速172kmで飛行していたと見られるが、スカイダイビングの経験が豊富な人ならば、雨が降る漆黒の闇夜の中を、顔に時速172kmの風が吹きつける状態で、ローファーやトレンチコートを着て飛び降りるという危険な行動はとらないという。また、クーパーは予備のパラシュートが訓練用で縫われて開かなくなっていることを見逃したが、スカイダイビングの経験の豊富な人ならば確認するという[86]。クーパーはヘルメットを持ち込んだり要求したりすることがなく[112]、与えられたメインのパラシュートから技術的に劣っているうえにより古い方のパラシュートを選んでいた[55]。11月の高度約3千メートル、推定温度-9℃のワシントン州上空を、暴風による体温の低下に対する適切な防護策を用意せずに飛び降りてしまってもいる[113][114]。
しかし、紙幣は自然に流れて堆積したものであるという仮説には難点もある。紙幣の束の1つからなぜ紙幣10枚がなくなっていたか説明できない点や、紙幣3束が残りの紙幣の束から離れた1ヵ所にまとまっていたことにも、論理的な説明が存在しない点である。物的証拠は地理上の証拠とも一致しない。ヒンメルスバッハは、紙幣の束が自然に浮かんで岸に流れ着いたのならば、クーパー事件から数年以内にそうなったはずであり、その話とは別に、札束をまとめた輪ゴムはとっくに劣化して切れていたはずだと述べている。この点はクーパー・リサーチ・チームが実証した[99]。地理上の証拠によれば、紙幣がティナ・バーへ流れ着いた時期は、陸軍工兵司令部が川の浚渫を行った1974年以降を示す。ポートランド州立大学の地理学者レナード・パーマー (英: Leonard Palmer) は、浚渫により川岸に堆積した粘土層の中から、砂や堆積物の層を別個に2つ発見した。また、紙幣を含む砂の層も見つけた。これらは、紙幣は浚渫が完了してから長い時間がたった後に流れ着いたと示唆するという[115][117]。クーパー・リサーチ・チームは粘土層は自然に堆積したと示す証拠を引き合いに出して、パーマー説に異議を唱えた。もしもこの発見が本当ならば、輪ゴムの実証に基づくと紙幣が流れ着いたのはハイジャックから1年以内である。しかし紙幣の束がティナ・バーにどのように流れ着いたか、その束はどこから来たのか、これらの説明にはならない[118]。
ジャック・コフェルト (英: Jack Coffelt) は前科持ちの詐欺師であり、政府の情報提供者であると噂されていた。自身はエイブラハム・リンカーンの血筋を引くと確実に伝わる末裔で、曾孫のロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズ(英語版) (英: Robert Todd Lincoln Beckwith) の運転手を務め、親友でもあると主張していた。1972年、コフェルトは自分こそがクーパーであると主張し始め、かつて同じ刑務所にいたジェームズ・ブラウン (英: James Brown) という人物を仲介して、ハリウッドの映画制作会社に自身の話を売り込もうとした。その話ではコフェルトはアリエルから南東に約80km離れたフッド山の近くに着陸し、その過程で負傷して身代金を失ったという。1971年に50代半ばだったコフェルトだが、写真にはクーパーの似顔絵との類似性があった。コフェルトはクーパー事件の日にポートランドにいたと言われており、その頃に脚にけがを負っていた。飛行機から飛び降りたときに負った傷と考えることもできる[131]。
FBIがコフェルトの話を調査したところ、一般の人々が知り得ない情報の細部に重大な誤りが見つかり、その話は捏造と結論した[132]。1975年のコフェルト死亡後も、ブラウンは懲りずにコフェルトの話をずっと吹聴していた。CBSのニュース番組 60 Minutes を含む複数のメディアでコフェルトの話が考察され、真実ではないとされた[133]。リンカーンの子孫を主題とする書籍(2008年発行[134])で、著者チャールズ・ラクマン (英: Charles Lachman) は36年前に信用に値しないと評されたコフェルトの話に再び着目した。
2011年8月、ニューヨーク誌は、305便に搭乗していたロバート・グレゴリー (英: Robert Gregory) の目撃に基づくとして、別の似顔絵を掲載した。その搭乗客によれば、ハイジャック犯は角縁のサングラスを掛け、ラペルの大きなあずき色のスーツジャケットを着ており、[要説明]という。記事では、L.D.クーパーは巻き毛でマルセルウェーブにも見えると言及している (後述の#ドゥエーン・ウェーバーも同様)[139]。FBIはL.D.クーパー手作りのギターストラップから指紋は検出されなかったと声明した[140]。1週間後、FBIは、L.D.クーパーのDNAはハイジャック犯のネクタイから発見された断片的なDNAプロファイルと一致しなかったと報告したが、ネクタイから発見された生体物質がハイジャック犯に由来する確証がないことは再度認めた[89]。FBIはそれ以上の声明を公的には出していない。
バーバラ・デートン
バーバラ・デートン (英: Barbara Dayton) は1926年生まれのワシントン大学の司書であり、飛行機操縦が趣味だった。出生名はロバート・デートン (英: Robert Dayton) だった。デートンはユナイテッド・ステーツ・マーチャント・マリーン(英語版)で働き、それから第二次世界大戦中は陸軍に加わっていた[141]。退役後、デートンは建設業界で爆薬を扱う仕事をした。定期航空便で仕事をしたいと思っていたが、商業パイロットの資格を得ることはできなかった。
ロバート・リチャード・レプシー (英: Robert Richard Lepsy) はミシガン州グレーリング(英語版)出身の33歳の食料雑貨店の店主であり、4人の子供の父親でもある。レプシーは1969年10月に失踪した。3日後にレプシーの自動車が地元の空港で発見され、外見の説明がレプシーと一致する男がメキシコへの飛行機に搭乗したのを目撃されたと言われている。当局はレプシーは自らの意思で姿をくらましたと結論付け、捜査を打ち切った[155][156]。
ジョン・リスト (英: John List) は税理士であり、第二次世界大戦と朝鮮戦争の兵役を経験した。クーパー事件の15日前、ニュージャージー州ウェストフィールド(英語版)で妻と3人の子供、85歳の母親を殺害し、母親の銀行口座から20万ドルを引き出して姿をくらました[160]。リストの失踪のタイミングや、クーパーの特徴との複数の一致、大量殺人の逃亡犯に失うものはないという推測から、クーパー事件を追っていた捜査官たちはリストに注目した[161][162]。1989年にリストが逮捕されると、リストは家族を殺害したことは認めたが、クーパー事件への関与は認めなかった。クーパー事件に関する記事やドキュメンタリーにはいまだにリストの名前が挙がるが、リストが犯人であることを示す確固たる証拠は存在せず、FBIももはやリストがクーパー事件の被疑者であるとは考えていない[163]。リストは獄中で2008年に死亡した[164]。
テッド・メイフィールド
テオドール・E・メイフィールド (英: Theodore E. Mayfield、テッド・メイフィールド <英: Ted Mayfield>) は特殊部隊での軍務を経験した人物であり、パイロット、競技スカイダイビングの選手、スカイダイビングのインストラクターでもあった。スカイダイビング講習中に2人の生徒がパラシュートが開かずに死亡した事件により、過失致死で1994年に服役した[165]。後に、さらに13件のスカイダイビング中の死亡事故への間接的な責任が認められた。これらの事故の原因は装備や訓練の欠陥だった。メイフィールドの犯罪歴の記録には武装強盗や盗難飛行機の運搬という前科も記されている[166]。2010年、パイロットの免許を失ってから26年後に飛行機を操縦したことにより、3年間の保護観察処分の判決を受けた[167]。FBIの捜査官のラルフ・ヒンメルスバッハによると、捜査の初期段階で、メイフィールドは度々被疑者として名前が挙がったという。ヒンメルバッハは以前に地元の空港で起きた喧嘩からメイフィールドのことを知っていた。メイフィールドは被疑者から除外されたが、その理由の1つは、305便がリノに着陸してから2時間もたたないうちに、メイフィールドがヒンメルスバッハに電話して、標準的なスカイダイビングの慣例や着地地点についてのアドバイスを志願したことである[168]。
2006年、2人のアマチュア研究者のダニエル・ドヴォラク (英: Daniel Dvorak) とマシュー・マイヤース (英: Matthew Myers) は、メイフィールドが被疑者であるという説を再び持ち出し、メイフィールドが犯人であることを示す状況証拠を収集したと断言した[166][169]。2人は、メイフィールドがヒンメルバッハに電話した理由はアドバイスの提供を申し出るためではなく、アリバイを作るためだったという仮説を立て、夜に原野へ飛び降りてから4時間もたたずにFBIに電話をかけるのは不可能であるというヒンメルスバッハの結論に異議を唱えた[169]。メイフィールドは事件への関与を否定し、クーパー事件の最中にFBIが自分に5回電話をかけて、パラシュートや地元のスカイダイバー、スカイダイビングの技術について質問してきたと以前に断言したことを繰り返し述べた[166]。ただし、ヒンメルバッハによると、FBIからメイフィールドに電話をかけたことは一切なかったという[170]。さらに、メイフィールドは、ドヴォラクとマイヤースが自分たちの説に同調することを持ちかけ、一緒に大金を稼ごうと誘ってきたと告発した。ドヴォラクとマイヤースはメイフィールドと内通したという話は見え透いた嘘であると述べた[169]。メイフィールドは2015年に死亡した[166]。メイフィールドは早い段階で被疑者から除外されたというヒンメルスバッハの元の発言を除けば、FBIはメイフィールドについていかなる声明も出していない[168]。
1991年のD.B. Cooper: The Real McCoyという書籍[178]で、著者であるパロール・オフィサーのバーニー・ローズ (英: Bernie Rhodes) とかつてFBIの捜査官だったラッセル・カラム (英: Russell Calame) は、マッコイがクーパーの正体であることを突き止めたと断言した。2人は2つのハイジャック事件の明白な類似性を引き合いに出し、さらに、マッコイの家族が飛行機に残されたネクタイと真珠母のネクタイ留めはマッコイのものであると主張したことや、マッコイ自身が自分がクーパーであることを認めることも否定することもしなかったことを根拠とした[173][179]。カラムはマッコイを射殺した捜査官だった[173]。
ロバート・ウェズリー・ラックストロー (英: Robert Wesley Rackstraw、1943年 - 2019年7月9日) は元パイロットであり、犯罪の前科がある。ベトナム戦争では陸軍のヘリコプターの乗組員や他の部隊で服務した。1978年2月に、ラックストローが爆薬の所持と小切手詐欺の嫌疑を受けてイランで逮捕され、アメリカに移送された事件が起こり、クーパー事件を追っていた捜査官の注目を集めた。数ヵ月後、保釈中だったとき、ラックストローは偽のメーデーの通報をして、管制官にモントレー湾上空でレンタルした飛行機からパラシュートを使って脱出すると告げて、自分の死を偽装しようとした[182]。後に、警察はパイロットの免許証を捏造した容疑でカリフォルニア州フラートンでラックストローを逮捕した。ラックストローが不時着水させたと主張していた飛行機は、塗装を変えた状態で近くの格納庫で発見された[183][184]。クーパー事件の捜査官は、ラックストローは1971年時点で28歳と若かったものの[185]、クーパーの似顔絵と身体的特徴が似ており、軍でパラシュートの訓練を受けていたことと、犯罪の前科があることについて言及した。しかし、クーパー事件との関与を示す直接的な証拠が発見できず、1979年に被疑者から除外された[186][187]。
2016年、ヒストリーチャンネルの番組[188]や書籍[189]でラックストローが再び容疑者として名前が挙がった。2016年9月8日、The Last Master Outlaw(英語版)の著者のトーマス・J・コルバート (英: Thomas J. Colbert) と弁護士のマーク・ザイド(英語版) (英: Mark Zaid) が、情報公開法を根拠としてFBIにクーパー事件の捜査資料を公開するように請求する訴訟を起こした。訴訟では、FBIがクーパー事件の捜査を停止したのは、ラックストローを告訴するのに十分な証拠を集めることに失敗したことで決まりの悪い思いをしないように済むために、ラックストローがクーパーであるという仮説を覆すことを目的としていたと主張されていた[190]。2018年1月、小規模の未解決事件ドキュメンタリー集団が、1971年12月に書かれた手紙を入手したと報告した。調査団はトーマス・コルバートとドンナ・コルバート (英: Dawna Colbert) が統率していた。調査団は、手紙に書かれた暗号を解読し、ラックストローが陸軍に在籍していたときに所属していた3つの部隊と一致したと報告した。FBIはアマチュアの調査団が自分たちが解決できなかった事件を解き明かしたことを認めることになるから自分たちの発見を承認しようとしなかったとも述べた[191]。
ウォルター・R・レカ (英: Walter R. Reca、1933年 - 2014年[197]、出生名はウォルター・R・ピカ「英: Walter R. Peca」) はミシガン州の住人で[198]、入隊経験があり、ミシガン・パラシュート・チームの最初期のメンバーだった。2018年5月17日の記者会見で、レカの友人のカール・ラウリン (英: Carl Laurin) がレカを被疑者とする説を唱えた[199][200]。ラウリンはかつては商業航空会社のパイロットであり、自身もパラシュートの熟練者である。2008年、レカは電話を通じてラウリンに自身がクーパーであることを告白した[201]。2018年7月、プリンシピア・メディアはこの件の調査についてのドキュメンタリーを4部にわたって放映した。
レカは公証人によって署名された手紙を通じて、自身の死後にこの話を他者に話す許可をラウリンに与えていた。レカは2014年に80歳で死亡した。レカとラウリンは2008年後半に6週間にわたってクーパー事件について電話で会話しており、レカはそれを録音することも許可した。3時間以上におよぶ会話の中では、レカは以前まで一般には知られていなかったクーパー事件の詳細について新しい情報を出した。レカは姪のリサ・ストーリー (英: Lisa Story) にも自身がクーパーであることを告白した[202]。ラウリンは数年間トレーニングの時間を使ってクーパーがパラシュートで降下した場所を突き止めようとし、クーパーはワシントン州クレエラム付近に着陸したと結論付けた。
証言によると、クレエラムの住人のジェフ・オシアダッツ (英: Jeff Osiadacz) は1971年11月24日の夜にクレエラム付近でダンプカーを走らせていたという。その際、悪天候の中で道路のわきを歩く男を見かけた。オシアダッツは、その人物は車が故障し、助力を求めて歩いているのだろうと推測した。しかし、ダンプカーには男を乗せるだけの空きがなかった。オシアダッツはそのまま目的地であるクレエラムのすぐ外れにあるティーナウェイ・ジャンクション・カフェ (英: Teanaway Junction Café) へ向かった。オシアダッツがコーヒーを頼んだ後、件の男もカフェに入ってきた。さながら溺れたネズミのような見た目だったという。男はオシアダッツの隣に座り、自分の友人をここへ案内したいため、その友人に電話をかけてほしいと頼んだ。オシアダッツは了承し、その男の友人に電話で話しかけ、カフェの場所を教えた。それからまもなく、オシアダッツはバンドの演奏をするためグランジェ・ホールへ向かうためにカフェを出ようとした。男はコーヒーの代金を払うことを申し出て、2人は友好的に別れた。
2016年、ラウリンはプリンシピア・メディアの経営者にこの情報を伝え、経営者は科学調査専門家のジョー・ケーニグ (英: Joe Koenig) に相談した[204]。ケーニグはラウリンが持ってきた全ての文書を鑑定した。文書にはパスポートやIDカード、写真、新聞の切り抜きが含まれる。ケーニグは改竄の証拠はなく、全ての文書は本物でその時代のものであると評価した。ラウリンの調査と入手可能なFBIの記録と比較すると、レカが被疑者でないと見なせる矛盾は見つからなかった。ケーニグはオシアダッツの1971年11月24日の夜の出来事についての証言がレカがその5年前に話したことと一致することが特に重要であるとも考えた。ケーニグは2018年5月17日に開かれたプリンシピア・メディアの記者会見で、ウォルター・R・レカがクーパーの正体と考えていると公言した[205]。2019年1月8日、ケーニグはGetting the Truthと題したクーパーについての書籍を出版した[206]。
ウィリアム・J・スミス
2018年11月、『オレゴニアン』誌はニュージャージー州ブルームフィールドの住民だったウィリアム・J・スミス (英: William J. Smith、1928年 - 2018年)[207]について、被疑者の可能性があると誌面で報じた。この記事の根拠は、研究者がアメリカ軍のデータを解析した成果とされた。研究者当人は2018年半ばに自身の発見をFBIに通報している[208]。スミスは第二次世界大戦時の海軍で兵役を務め、クーパー事件当時は43歳だった。入隊は高校卒業後で、空を飛びたいと言って飛行士に志願している。退役後はリーハイ・バレー鉄道で働き、1970年のペン・セントラル鉄道倒産という、アメリカ経済史上に残る倒産のあおりを受けて失職した。記事は仮説を立て、スミスは会社が解体されたために企業年金を失い、企業と交通産業に恨みを募らせたとしている。また年金を受け取れなくなったために突然、金が必要な状況に追い込まれたとも推測される。スミスの母校の高校の卒業生年鑑には、第二次世界大戦で死亡した同窓の一覧に〔アイラ・ダニエル・クーパー〕(英: Ira Daniel Cooper) という人物を掲載していた。これが「ダン・クーパー」という偽名の由来だった可能性はある[208]。研究者は、スミスは海軍従軍時代に操縦士を志願して航空機やパラシュートの知識を得たこと、鉄道会社勤務の経験から鉄道軌道がどこに敷かれているか知っていたことから、旅客機から飛び降りて着陸後、逃亡の経路は軌道をたどって電車に乗れば良いというヒントを得たはずだと述べた[209]。同じ研究者の指摘では、自身の調査の発端はマックス・ガンサー (英: Max Gunther) の著作『D.B. Cooper: What Really Happened』 (1985年) とウィリアム・J・スミスとが結び付いたからとも述べている[210]。
オレゴニアン誌の記事は、ネクタイに付着していたアルミニウムの螺旋状の小片などの粒子は、機関車整備施設に由来する可能性があるとも記している。さらにもしスミスがクーパーだったとすると、スミスが知っていたシアトル地域の情報は、実は鉄道に勤務した時期からの親友ダン・クレア (英: Dan Clair) から聞き知ったのみで、クレアは第二次世界大戦中にルイス駐屯地に配属された経験があるとも伝えている。スミスとクレアはオーク・アイランド・ヤード(ニュージャージー州ニュアーク)の同僚で、スミスはコンレールの助役の職を退職した。さらにリーハイ・バレー鉄道の写真を掲載したウェブサイトにあるスミスの写真は、クーパーの似顔絵と著しく似ているとも書かれている[211]。FBIはメディアからスミスに関する情報を要求されると、特定の被疑者に関するコメントは不適切であると述べたのみである[208]。
ドゥエーン・ウェーバー
ドゥエーン・L・ウェーバー (英: Duane L. Weber) は第二次世界大戦に陸軍で兵役を務めた人物であり、1945年から1968年の間に強盗や文書偽造で少なくとも6箇所の刑務所で服役していた。ウェーバーを被疑者と告発したのはその妻であったが、その第一の理由はウェーバー自身が死に際に犯行を告白したからだという。ウェーバーは1995年、死没の3日前に、妻に自分の名前はダン・クーパーであると伝えた。妻はその名前を聞いても意味が分からなかったというが、数ヵ月後、友人からその人名の意味を教わった妻は地元の図書館へ行くと、ダン・クーパーについて書いたマックス・ガンサーの著作があった。ウェーバーの妻はその余白に夫の筆跡で書かれたメモを発見した[5]。
クーパーは私益のためにハイジャックを行った最初の人物ではない。例えば1971年11月初旬、カナダ人のポール・ジョセフ・チーニ (英: Paul Joseph Cini) はモンタナ州上空でエア・カナダのDC-8機をハイジャックした。しかし、持参してきたパラシュートを装着しようとして散弾銃を下ろしたすきを突かれ、乗員に制圧された[213][214]。クーパーは少なくともパラシュートで降下するところまでハイジャックを成功させたため、にわかに模倣犯が現れた。そのような事件のほとんどは1972年に発生しており[215]、著名な例を次に挙げる。
リチャード・チャールズ・ラポイント (英: Richard Charles LaPoint) は陸軍で兵役を経験した人物であり、当時は「ニューイングランドのビーチバム」[217]つまり「ニューイングランドの海辺で働きもせず遊び呆ける人」であった。ラポイントは1月20日にラスベガスのマッカランでヒューズ・エア・ウエスト800便のDC-9機に搭乗した。旅客機が誘導路に進んだときに爆弾と称するものを見せ付けて脅迫し、5万ドルとパラシュート2個、ヘルメットを要求した[218]。乗客51名と客室乗務員2名を解放すると、デンバーへ向けて東に旅客機を飛ばすように命じた[219]。その後、コロラド州北東部の森のない平原上空でパラシュートで降下した。実はそのパラシュートに探知機が付けてあり、当局はパラシュートの軌跡をたどり、雪や泥についた足跡を追跡して数時間後にはラポイントを逮捕した[220][221][222]。
マーティン・マクナリー (英: Martin McNally) はガソリンスタンドの案内係の職を失っていた。6月下旬にセントルイスからタルサへ向かう途中のアメリカン航空のボーイング727に短機関銃を持ちこんでハイジャックし、東に方向転換してインディアナ州へ向かわせ、50万ドルの身代金を受け取るとパラシュートで降下した[229]。マクナリーは機体を離れたときに身代金を失ったが、インディアナ州ペルー(英語版)の近くに無事に着陸、数日後にデトロイト近郊で逮捕された[230]。
1972年に発生したクーパー事件に似たハイジャック事件は全部で15件あり、すべて失敗に終わった[231]。手荷物検査は1973年に全国で行い始め (#空港の安全性を参照)、ハイジャック事件の発生率は全体に劇的に減少した[232]。クーパー事件を模倣したハイジャック事件は、1980年7月11日を最後に顕著な例は存在しない。その日、グレン・K・トリップ (英: Glenn K. Tripp) がノースウエスト航空608便をシアトル・タコマ空港でハイジャックし、60万ドル (ある文献では10万ドル)[233]とパラシュート2個、自身の上司を殺すよう要求した。しかし、客室乗務員がとっさの機転をきかせて、アルコール飲料に密かにバリウムを混ぜてトリップに与えた。10時間もの膠着状態の間に、トリップは要求をチーズバーガー3個と逃走しても追っ手はすぐに追尾しないことに変更し、その後に逮捕された[234]。ところが1983年1月21日、まだ保護観察中のトリップは再び同じノースウエスト航空機を狙い、今度は飛行中にハイジャックしてアフガニスタンへ向かうよう要求した。旅客機はポートランドに着陸し、トリップはFBIの捜査官に銃殺された[235]。
事件の余波
空港の安全性
クーパー事件が商業航空に安全性をもたらす幕開けとなった。前年にスカイ・マーシャル・プログラムが開始されたにも関わらず[232]、1972年にアメリカで飛行中の旅客機で31件もハイジャック事件が発生していた。そのうちの19件は金の強奪が目的で、それ以外の事件のほとんどはキューバへ向かえと要求した[236]。金の強奪を目的とした事件のうちの15件はパラシュートも要求された[231]。1973年前半、連邦航空局は、航空会社に乗客全員とその鞄を検査することを要求した。このような手荷物の検査が検査と押収を規制する憲法修正第4条に反していると複数の訴訟が起こされたが、連邦裁判所は、このような検査が全国的に行われ、かつそれが武器や爆薬の探知を目的とした検査に限られるときに許可されると決定した[232]。1972年に31件もハイジャックがあったのに対し、1973年は2件しか起こらなかった。どちらも精神障害者による犯行で、そのうちの1人であるサミュエル・ビック(英語版) (英: Samuel Byck) は旅客機をホワイトハウスに突っ込ませてニクソン大統領を殺害しようと企てた[237]。
飛行機の改修
降下抑止装置クーパー・ベーン。解除されている。
1972年に模倣犯の犯行が相次ぐと、連邦航空局はボーイング727全機に飛行中、尾部のエアステアを降下させない装置取り付けを義務付けた。この装置は後に「クーパー・ベーン」(英: Cooper vane) と呼ばれた[232][238]。また、クーパー事件を直接の理由として、全ての旅客機はコックピットのドアに覗き穴を導入した。これにより、ドアを開けることなくコックピット内の乗員が客室にいる人の様子を見ることができるようになった[239]。
ヒンメルスバッハがクーパーを "rotten sleazy crook"[246] (直訳すると「腐った薄汚いペテン師」) と呼んだことは有名だが、クーパーの大胆で危険を冒す犯行はカルト的な支持者を生み出し、歌や映画、文学の題材となった。太平洋岸北西地区にある料理店やボーリング場は定期的にクーパーをテーマに宣伝活動を行い、観光客向けのみやげを売り、エアリアル・ジェネラル・ストア・アンド・タヴァーン (英: Ariel General Store and Tavern、直訳すると「アリエル雑貨店・居酒屋」) では1974年から毎年11月に「クーパーの日」のお祝いが開かれた。ただし、経営者のドナ・エリオット (英: Dona Elliott) が亡くなった2015年は行っていない[247]。
^Bragg, Lynn E. (2005) (英語). Myths and Mysteries of Washington. Guilford, Connecticut: Globe Pequot. p. 2. ISBN978-0-7627-3427-6
^Steven, Richard (1996年11月24日). “When D.B. Cooper Dropped From Sky: Where did the daring, mysterious skyjacker go? Twenty-five years later, the search is still on for even a trace” (英語). The Philadelphia Inquirer: p. A20
^Taylor, Michael (1996年11月24日). “D.B. Cooper legend still up in air 25 years after leap, hijackers prompts strong feelings” (英語). San Francisco Chronicle
^Frazier, Joe (1976年11月13日). “Sky Thief: Bandit Who Stole $200,000 in 1971 Still Being Sought” (英語). Pittsburgh Post-Gazette: p. B-1{{cite news}}: |access-date=を指定する場合、|url=も指定してください。 (説明)⚠
^Richardson, Ross (2014) (英語). Still missing: rethinking the D.B. Cooper case and other mysterious unsolved disappearances. Lake Ann, Michigan: Terra Mysteria Media. pp. 142-7. ISBN099600470X
^Benford, Timothy B.; Johnson, James P. (2000) (英語). Righteous Carnage: The List Murders in Westfield. Lincoln, Nebraska: iUniverse. pp. 76–77. ISBN978-0-595-00720-2
Himmelsbach, Ralph P.; Worcester, Thomas K. (1986) (英語). Norjak: The Investigation of D. B. Cooper. West Linn, Oregon: Norjak Project. ISBN978-0-9617415-0-1
Porteous, Skipp; Blevins, Robert M. (2010) (英語). Into the Blast – The True Story of D.B. Cooper. Seattle, Washington: Adventure Books of Seattle. ISBN978-0-9823271-8-0
状況証拠を収集し真犯人はクリスチャンセンとする。
Gray, Geoffrey (2011) (英語). Skyjack: The Hunt for D.B. Cooper. Crown. ISBN0-307-45129-1
著者はクリスチャンセン被疑者説を『ニューヨーク』誌 (2007年) に記した。
フィクション
Reid, Elwood (2005) (英語). D.B.: A Novel. Anchor Books. ISBN0-385-49739-3
クーパー事件の真相を描こうと企画しながら、事実上、裏付けに失敗。
Grant, Walter (2008) (英語). D.B. Cooper, Where Are You?. Publication Consultants. ISBN1-59433-076-X (自費出版)
クーパー事件の顛末を空想仕立てにした。
Nuttall, George C. (2010) (英語). D.B. Cooper Case Exposed: J. Edgar Hoover Cover Up?. Vantage Press. ISBN978-0-533-16390-8