TANK (台湾のシンガーソングライター)
TANK(1982年〈民国71年〉2月6日- )は、台湾出身のシンガーソングライター。本名は呂建忠。2006年2月24日にデビューアルバム『FIGHTING! 生存之道』をリリース。血液型はB型。身長171cm。愛称は音乐小霸王、情歌王子、台湾のラブソングの王子、等。 来歴デビュー前彼が音楽に魅了されたのは、幼稚園の頃に教会の賛美歌に触れたことがきっかけだった。その後、教会に通ってギターを教わり、テレビやラジオで様々な音楽を聴くようになった。中学時代には、鼻歌を歌いながら自作曲を作るようになった[1]。 経済的な困難から両親の喧嘩が絶えず、学費を貯めることで精一杯だった。中学生の頃から皿洗いやバーで歌う仕事をしていた。ギターを習いたいという夢もあったが、両親にギターを捨てられ、家出することもあった[2]。 子供の頃にいじめを受け、多くの価値観が歪められたため、大人になったら出世して自分を証明したいと思っていた[3]。 高校時代、同級生とロックバンドのリードボーカルを務め、メンバーからベースとドラムを習う。その後、独学でピアノを弾くようになる。楽しみと小遣い稼ぎを兼ねて、民謡屋で歌い始めた。 19歳で板橋、桃園、台北など各地の民歌レストランやパブで歌を歌い、月に約7万4000円~11万円の収入を得ていた。また、滾石可樂や163888.net中国語版でJienという名前でネット歌手としても活躍していた。 苦しい生活の中、民歌レストランで黄辛(ホアン・シン)と知り合ったことで状況は一変。黄辛は彼にデモテープの作り方を教え、彼の作品をレコード会社各社に送り続けた。後に2012年まで所属することになった華研唱片と契約するまでに300曲を越える作品を作った[4]。 黄辛は彼と契約を結び、マネージャーを担当した。そして彼に音楽や制作、編曲の仕方を教えた。芸名をJienから零に変え、次々に曲を発表した[5]。 2003年、K Oneのアルバム『We R K One』の「古老的証明」の作詞、作曲を手掛けた。 2004年、滾石可樂で活動していたDean(張承濬)とグループDEAN & JIENを結成。この時、芸名を零からJienに戻した。デビッド・タオのファンサイト"喆服"に曲を依頼され、彼はボーカル、ハーモニー、プロデューサーなどの音楽作業を担当した[6]。 その後、華研の社長の目に留まった彼はスタッフ同士のカラオケ会と偽られ、カラオケボックスで歌唱力を試された。カラオケが好きだった彼は、そうとも知らずにテーブルに足を載せて熱唱した。華研の副会長の呂世玉が彼のカリスマ性を見出し、「この新人は絶対に必要だ」とその場で判断された[1]。 すぐ正式に華研の歌手になり、芸名がJienからTANKに変更された[7] 。 デビューアルバムをリリースする前に、周渝民やS.H.E、ウィルバー・パンなどの多くのアーティストの曲を作曲を手掛けた。 作曲、歌、パフォーマンスの才能から、デビッド・タオとジェイ・チョウに次ぐ大物と言われ、"音樂小霸王"と呼ばれるようになった。 デビュー後(〜2012年)2006年2月24日にデビューアルバム『FIGHTING! 生存之道』をリリース。 NCsoftからコンピュータ ゲームGuild Warsの主題歌の作曲を依頼され、アルバム内の「激戰」が主題歌になった[8]。曲はアメリカ本社に送られ、社長や制作チームの審査・承認を経て、台湾・香港・マカオのテーマソングに選ばれた。 2007年1月19日、セカンドアルバム『延長比賽 Keep Fighting!!』をリリース。 アルバム内の「專屬天使」は、台湾版「花ざかりの君たちへ」のエンディングテーマに使用された。 遺伝性の先天性心疾患があり、2007年12月26日に心臓発作を起こし、痛みで声を出せずにソファに倒れているところを友人が見つけ、救急車で病院に搬送された。姉は2006年12月に心臓発作で睡眠中に亡くなり、叔母も数か月後に心臓発作で亡くなった[9]。 2008年6月30日夜、酒を飲んだにもかかわらず車を運転。時速60キロのスピードを出して75歳の女性を車で跳ねて怪我をさせた。彼は止まって様子を見ることもなく、その場から逃走した。女性との和解は成立したが、本人からは事故の報告がなく、メディアの報道で事件を知った華研は、「契約解除の措置はとらないが、夜遊びと飲酒を固く禁じて反省を求めた」とコメントを出した[10]。 2009年3月27日、心臓病のリスクを抱える子どもを持つ家族を支援する慈善財団が主催する善的力量专户に参加した。彼自身も先天性心疾患を患っているため、自分の活動を通じて、助けを必要としている心疾患の子どもたちにもっと注目してほしいと語った。 2009年5月29日、サードアルバム『第三回合 The Three Round』をリリース。 2年間蓄積された創作エネルギーで、10曲の新曲を書いただけでなく、アルバムの制作、ボーカル、ハーモニー、レコーディングをほぼ1人でこなした。[12]。 台湾のキリスト教テレビ局のGOOD TV 好消息電視台にて、アルバム『第三回合』の紹介をすると共に、涙ながらにこれまでの苦悩や、姉の死について語った[13]。 2012年5月、7年間続いた華研との契約を終了し、友人らと音楽スタジオを設立した。 2012年9月28日、2年間交際していた、モデルの郑智雅(MerMer)と結婚。妻へのラブソング「結婚吧」を作詞作曲した。結婚式はもともと2011年末に予定されていたが、2011年11月に娘が生まれたため延期された[14]。
空白の4年間と復帰2016年6月25日、西門町の路上で歌う姿が目撃され、7月にアルバム『起初』で7年ぶりに復帰した。 2016年、自身のFacebookでで、家族の死、心臓病、離婚、事故などに苦しんだ4年間を明かした。 姉がプロポーズされた日の夜に心臓発作で亡くなり、彼は姉よりも病状が悪いと医者に宣告されていた[15]。心臓除細動器を埋め込んだにもかかわらず、医師からは「心臓の問題は解決しない」「大きな声で歌うのも危険だ」と言われ、思うように音楽活動ができないストレスや死の恐怖を酒にぶつけるようになった[13]。 結婚後も酒やタバコをやめられず、健康管理もろくにしなかったため、体調を崩し、妻と度々喧嘩するようになり、2014年に離婚した[16]。 彼にとってアルコールはストレスを抑える手段であり、ひどい時には、酔いつぶれるように飲んでいた。二日酔いで出勤し、仕事が終わって酔いがさめたらまた仲間と遊びに行くこともあった。 2013年、超級歌喉讚の収録中に極度の緊張で心拍が乱れ、除細動器が誤作動し、歌唱が2度中断[17]。これがトラウマとなり、ステージに立つことを恐れるようになった[18]。 ある時、酒を飲んだ後、帰宅する際にバランスを崩して道路脇のバイクに衝突した。痛みや傷がなかったため気に留めていなかった。しかし、2日後に頭がフラフラして痛くなり、吐き気を感じたため、病院に行ったところ、脳にたまっていた瘀血を繰り返し吐き続けるようになった。頭蓋内出血と診断され、集中治療室に運ばれた。医師はすでに、この病院で亡くなっても責任は取らないという手紙にサインしていた。手術をすれば多量出血で命を落とす可能性があり、医者も手術するかどうか迷う程、あまりにも危機的な状況だった。牧師が涙ながらに祈る姿を見て、そこで初めて事態の深刻さに気づき、自分が変わらなければならないことを痛感した[19]。最終的に凝固剤を投与し、瘀血を固めた後に手術が行われた。無事成功し、約1週間後に退院することができた。 手術後、大きなガーゼを貼った自分の坊主頭を見て、酒をやめ、教会に戻って自分探しをしようと決意した[20]。しかし、生活に対する希望を失い、ステージに復帰することを恐れていた。ステージに戻り始めたばかりの頃は、不安のあまりギターを置いたままステージから降りてしまったこともある。その時、神父が彼の心臓に手を当てて、ステージから降りないように祈ってくれたという。 繰り返し神父が彼の胸に手を当てて、恐怖に打ち勝つ強さを与え、彼は再びステージに立てるようになった[21]。 飲酒も「3杯を2杯半に減らす」「毎日を2日に1回にする」など徐々に減らし、気を紛らわせる方法を見つけながら克服。家族やファンの支えの中で音楽活動を再開し、慈善活動にも力を入れるようになった[22]。 離婚後、当時、娘の親権は妻が持ち、彼は月に一度は娘と会っていた。 娘が小学生になった頃、前妻と連絡を取り、親権は彼に譲られた[23]。前妻との関係は良好であり、自身のInstagramには、娘の写真が度々投稿されている。 長年にわたる治療と療養を経て、次第に音楽活動の中心を慈善活動に移し、山でボランティアをしたり、教会で子供たちに楽器を教えたり、時には街頭で歌ったりしていた。 「もう過去の重い秘密を背負いたくない、逃げたくないと思い、正直に話す決心をしました。過去の過ちを認め、人々の批判も受け入れる覚悟です。家に閉じこもり、ただひっそりと天の父だけに告白するのではなく、皆さんにもお伝えしたいのです。私はかつて、模範となるべき存在ではありませんでした。どうか私の過去を学ばないでください。向き合う決意をしたとき、主イエス・キリストの尊い血が私を清め、神の器として聖なる存在にしてくれると信じています。私は、全てを神に捧げる際に、苦悩や罪を抱えたままでありたくありません。」と語っている[24]。 この復帰宣言は様々なメディアで取り上げられ、大きな話題となった。
2度目の復帰宣言2022年5月25日、新曲「倔强的树」をリリースすることを発表したと同時に、自身の微博で再び復帰宣言をした[25][26]。
復帰後の活動2018年12月7日、4枚目のアルバム『新計劃』をリリース。翌年3月8日には単独コンサートを開催した。コンサートの収益金は全額、台北原住民ケア協会に寄付され、台北で学ぶ原住民の子供たちの学費に充てられた[27]。 2018年、ドラマ「愛情進化論」の主題歌、「我在呢」の作曲を担当し、YouTubeでの再生回数は1400万回再生を突破している。 2020年1月、映画『你的情歌』の主題歌、「你的情歌」を担当し、YouTubeでの再生回数は3000万回再生を突破している。KKBOXチャートで2週連続1位、10週連続トップ10入り、年間シングルチャートで8位を獲得した。 2021年4月27日、LINEの恋愛ドラマ「愛的奧特萊斯」の主題歌「電電的」と「寫給明天的情書」を担当し、そのうち「寫給明天的情書」はYouTubeやKKBOXで大ヒットし、様々なアーティストによるカバーバージョンも存在する。 2021年6月16日、6月の始めに日本が無償でAZ製ワクチンを台湾に提供したことを受け、音楽を通して日本に感謝を表すとともに、日本と台湾のコロナが一日も早く収束するようにと祈りを込めて、日本人宣教師の丸山陽子と共同で「祈りはきかれる」(我的禱告你聽得到)を制作し、日本語バージョンと中国語バージョンを同時にリリースした[28]。 2022年5月25日、6枚目のアルバム『倔强的树』をリリース。 作品アルバム
シングル
EP
サウンドトラック
楽曲提供2003年 2004年 2005年
2006年
2007年
2010年
2011年
2012年
2013年
2016年
2017年 2018年
コンサート給我你的愛激戰漁人碼頭演唱會
非你莫屬KUROOM萬人演唱會
坦克暴冲音乐会
新計劃演唱會
如果我沒有變成回憶 音樂小聚會
NEW PLAN 公益演唱會
專屬天使 校園巡迴演唱會
TANK吕建忠成都歌友会
關於愛和勇氣,再出發 演唱会
受賞歴2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2024年
脚注注釈
出典
外部リンク |
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