Uボート・ブンカー![]() Uボート・ブンカー(独: U-Boot-Bunker)とは空襲からUボートを保護する堅牢な防空施設である。 第二次世界大戦中、ドイツは連合国軍の空襲から、繋留・整備中のUボートを守るために防空施設を建設した。Uボート・ブンカーは厚い鉄筋コンクリートで建設され、その外観から連合軍はサブマリン・ペン (Submarine pen)と呼称した。 歴史![]() ![]() 第一次世界大戦中の1917年、フランス、ダンケルクから飛来したイギリス海軍航空隊のカーチス H12などの航空機は、ベルギー国内のオステンドやゼーブルッヘに建設したUボート基地を空襲した。空襲当初はドイツ海軍航空隊が応戦していたが、その脅威が増した1917年8月、魚雷艇基地であったゼーブルッヘでは、Uボート・ブンカーの原型となるコンクリート製の防空壕(係留ブンカー)が建設された[1]。この係留ブンカーは、長さが62m、幅9mのものを8基繋げて構成されており、英軍の爆撃にも耐えた。 この経験から後の第二次世界大戦においては、任務を終え帰投したUボートを岸壁に係留させることが危険と判断され、総統アドルフ・ヒトラーは潜水艦隊司令長官(BdU)カール・デーニッツ提督との会合においてトート機関に建設の指示を出した[2]。 そしてUボート専用施設として初となる「Uボート・ブンカー」が北海にあるヘルゴラント島に建設され、これに続きハンブルク、キールでも建設が開始されている[3]。これらは一箇所に付き7か月程度の工期で順次竣工した。なお、この建設には労働者2万人以上が徴用された。 このブンカーは爆撃から効果的にUボートを守ったため、イギリス空軍はブンカーの厚い鉄筋コンクリート製屋根を貫通する12,000ポンド爆弾のトールボーイを導入する。するとドイツはトールボーイにも耐えるようブンカーの屋根を増強。これに対抗するためイギリスは、終戦直前の1945年に22,000ポンド爆弾のグランドスラムを導入した。 大戦末期には、強固な構造を利用し進軍してきた連合軍に最後まで抵抗した。なお、ラ・パリスのブンカーでは、港湾機能全てが破壊されずに残った。これは指揮官であるエルンスト・シュリッツ中将が、砲撃しなければ施設を無傷で明け渡すことを条件に投降の意を示し、包囲した連合軍もこれを受け入れたためである[4]。 現在戦後いくつかの場所に於いて解体作業が計画されたが、余りに強固な構造のため計画は中止となり現存し、ブレストは海軍基地、トロンハイムは民間の港になっている他、サンナゼールやロリアンのように観光名所として利用されている箇所もあり、航空写真地図などからその姿は現在でも確認できる。 種類Uボート・ブンカーには、一基に対し1隻のみ係留させるものと2隻並行に係留させるものがあり、中には出入り口に防水扉が設けられ、閉じることで乾ドックの役割を持たせたものもあった。 ノルウェーのトロンハイムに建設されたドーラ1・2[注釈 1]、ブレスト、ロリアンに建設されたブンカー(秘匿名ケロマンI・II・III)ブレーメンのバレンティンブンカーは非常に大型であり、屋上には対空機関砲や機銃の他、警戒レーダーなども設置されている。 ナチス・ドイツ![]() フランス
ノルウェーイタリア
脚注注釈出典参考文献
関連項目外部リンク
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