ノート:岡潔
生誕地和歌山県の紀見峠が生誕地ではないでしょうか?「岡潔生誕の地」という石碑が紀見峠に立ってますので([1]、[2]などで石碑を確認できます。私も石碑の実物を見ました)。--KENPEI 2009年11月8日 (日) 09:42 (UTC)
改めて自伝、評伝にいくつか目を通しました。高瀬正仁『評伝岡潔』の最初の部分がここで少し読めますが、石碑について「厳密には生地ではないが、故郷には違いない」といった内容があります。生まれたのが大阪であるのは、父親の仕事の関係でたまたまと見ることもでき、紀見峠がゆかりの地であることは、大阪生まれという事実よりも重要であるとさえ思われましたので、冒頭の「大阪生まれ」を除去し、後の節に出典を移しました。先に「和歌山育ち」と書きましたが、大阪の小学校に通ったりもしていて、事はそれほど簡単ではなく、現状の「父祖の地」という表現が間違いが無さそうです。--白駒 2009年11月15日 (日) 16:28 (UTC) ・生誕地について 岡潔先生の生誕地は大阪市東区島町2丁目20番屋敷です(「田島町」ではありません)。現在の地名表記では大阪市中央区になります。父の名は坂本寛治。母の名は八重。父の坂本寛治は岡文一郎の三男です。岡家の所在地は和歌山県伊都郡紀見村大字柱本で、紀見峠の頂上付近にありました。現在、岡家は存在せず、かつての岡家の位置の近くに生誕の地と刻まれた石碑が建てられていますが、そこは岡先生の生誕の地ではありません。岡家に生れた父寛治が坂本の姓を名乗ったのは徴兵を逃れるための措置でした。長男は徴兵を免れるという当時の制度により、坂本家の当主になるという措置を講じられました。その後、徴兵制が変更されて一年志願兵という制度ができました。後年の幹部候補生の制度です。寛治さんは明治法律学校(明治大学の前身)を出ていましたので資格があり、一年志願兵に応じて後備役の陸軍少尉になりました。 岡家は長男の寛剛さんが継ぐことになっていましたが、早く亡くなりましたので、岡先生の祖父の文一郎が岡家の当主です。三男の寛治さんは大阪に出て仕事をしていました。岡先生の幼少年期の名は坂本潔です。誕生日は明治34年(1901年)ですが、1年早く小学校に入学させたいという父の配慮により一箇月早めて3月19日出生と役場に届けられましたので、戸籍には3月19日出生と記載されています。 明治37年(1904年)2月に日露戦争が始まり、父の寛治さんは召集されて戦地に向うことになりましたので、坂本家は父の郷里に紀見峠に引き上げました。岡先生は紀見峠で成長し、明治40年(1907年)4月に紀見村の柱本尋常小学校に入学しました。3月19日出生という戸籍の記録に沿って入学したのですから、書類上は正規の学齢に達しての入学であり、飛び級ではありません。その後、戦地から帰郷した父とともに再び大阪に出て、第2学年の2学期から大阪の菅南尋常小学校に転校しました。 明治44年(1911年)の暮れ、祖父文一郎が病気になったため、寛治さんが岡家を継ぐことになり、明治45年(1912年)の春、坂本家は紀見峠にもどりました。姓も変り、岡を名乗ることになり、岡先生は「坂本潔」から「岡潔」になりました。再び柱本尋常小学校に転校しました。 ・柱本尋常小学校の卒業にあたって粉河中学を受験しましたが、失敗し、紀見村の紀見尋常高等小学校の高等科に進みました。柱本尋常小学校には高等科が設置--Tokujisan(会話) 2020年8月20日 (木) 11:26 (UTC)されていなかったためです。紀見尋常高等小学校に1年間在籍し、粉河中学校を再度受験して合格しました。出生届を早めて1年早く小学校に入学しても結局は同じことになったと、後年岡先生は回想しました。 ・粉河中学校の校名について--Tokujisan(会話) 2020年8月15日 (土) 16:41 (UTC)--Tokujisan(会話) 2020年8月15日 (土) 16:41 (UTC)--Tokujisan(会話) 2020年8月15日 (土) 16:41 (UTC) 「和歌山県立」ではなく、「和歌山県粉河中学校」が正式な名称です。 ・岡先生の親友について 岡先生が心を許した親友はパリで知り合った中谷治宇二郎です。治宇二郎さんの兄の中谷宇吉郎先生とも親しいお付き合いが続きましたが、真に親友の名に値するのは中谷治宇二郎です。 ・広島大学を休職した時期について 広島大学を休職したのは昭和13年(1938年)1月ではなく、同年6月です。6月20日付で休職が発令されました。2年後の昭和15年6月17日付で依願免本官の辞令が出て辞職となりました。 ・学位について 昭和15年(1940年)10月10日付で京都帝国大学から理学博士の学位を授与されました。学位論文は第1論文から第5論文までの5篇の論文の内容を日本語で書き直したもので、この年の春までに提出されました。第6論文とは関係がありません。 ・第6論文について 昭和15年の初夏のころ、第2の発見を体験し、これを元にして第6論文が成立しました。書き上げられたのは翌昭和16年(1941年)のことで、10月25日付で東北帝国大学の数学誌『東北數學雜誌』に受理されました。論文の発表において重要なのは受理された日付です。 --Tokujisan--Tokujisan(会話) 2020年8月15日 (土) 16:01 (UTC)--Tokujisan(会話) 2020年8月15日 (土) 16:01 (UTC)--Tokujisan(会話) 2020年8月15日 (土) 16:01 (UTC) 引用箇所の無断改変
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