山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日[注 1] - 1958年〈昭和33年〉11月20日)は、日本の国語学者、国文学者、歴史学者。東北帝国大学教授を歴任。文化勲章受章。
独学の人として知られる。「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される。
経歴
1873年、富山県富山市総曲輪(そうがわ)に於保多神社宮司山田方雄の次男として生れる。父は前田利保に歌を学んだ連歌の宗匠でもあった。履新小学校卒業。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格。富山県内の小学校や兵庫、奈良、高知などの中学校で教員を務める。
1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年(大正9年)日本大学講師、1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授[6]に昇格。1929年(昭和4年)には「日本文法論」によって文学博士[7]の学位を授与される。1933年(昭和8年)に退官[6]。
1936年(昭和11年)に『国体の本義』編纂委員(国文担当)を務める[8]。
1940年(昭和15年)に神宮皇學館大學学長[9]、1941年(昭和16年)神祇院参与、同年肇国聖蹟調査委員、1942年(昭和17年)日本文学報国会理事、1944年(昭和19年)に学術研究会会議会員、同年5月18日、貴族院勅選議員に勅任[10]、文部省国史編修官、1945年(昭和20年)7月には国史編修院長、同年愛宕神社名誉宮司となる。1946年(昭和21年)5月18日に貴族院議員を辞職し[11]、同年公職追放となる[注 2]。
1949年(昭和24年)仙台市に移り、国語辞典の編修に専念、1951年(昭和26年)に追放解除となる。1953年(昭和28年)に文化功労者顕彰、1957年(昭和32年)、富山県出身者として初の文化勲章を受章。また同年には富山市名誉市民にも推薦されている[12]。1958年(昭和33年)、結腸癌のために入院先の東北大学附属病院で死去、85歳。従三位・勲二等旭日重光章。墓所は富山市内の長慶寺境内にある。富山市立図書館に「山田孝雄文庫」がある[注 3]。
家族・親族
- 妻
- 子供
- 男子
- 女子
- 山田さくら
- 山田みづえ(俳人)
- 山田さなえ - 今野さなへ(歌人)
- 山田ちあき
- 山田かをる
- 孫
- 男子
- 女子
- 佐藤さつき(母山田ちあき長女 教員)
- 山田みどり(国語学・成蹊大学講師)
業績
山田が成し遂げた国語学は「山田国語学」として有名で、言語の形式ではなく言語の表す内容を重視する傾向にある。これに基づいた独自の体系的な文法理論は四大文法の一つ「山田文法」として知られている。この理論は堅実で実証的かつ独創性に溢れており、各時代の語法を記述的に整理し、文法史研究の基礎を築き上げ、敬語法や訓読研究など、文法学の新領域を開拓し、後の文法学界に多大な影響を与えた。
また、仮名遣いや五十音図、漢語などの研究を通じ、国語学の研究分野にも新方面を開いた。さらに、古写本の複製の他に、厳密な語学的注釈による国文学や、周到な研究による国史学などにも多大な尽力をはらった。一方で、戦前の国語改革を徹底的に批判すると共に、戦前国粋主義への思想的な裏付けを与えた可能性も指摘されている。
逸話
- 文法研究の原動力になった出来事は、兵庫県の鳳鳴義塾で教員をしていた頃、生徒から「主語につく『は』が主格でない場合にも使われている[注 4]」と質問され、答えに窮したことであった。以来、国文法に邁進するようになったという。
- 谷崎潤一郎は源氏物語の現代語訳をする時、訳した箇所をその都度郵送し、山田孝雄に校閲を依頼した。
主な著書
公刊された著書は70余冊、論文は約300編に上るという。
文法学
- (日本大学高等師範部国漢科・大正13年度講義、孔版印刷、菊判、全85頁)
日本文学
日本史学・思想史
- 『戊申詔書義解』(宝文館、1909年)
- 『大日本国体概論』(宝文館、1910年)
- 『国民道徳原論』(宝文館、1924年)
- 『神皇正統記述義』(民友社、1932年)
- 『国体の本義』(宝文館、1933年、普及版1936年)
- 『国民精神作興に関する詔書義解』(宝文館、1933年)
- 『典籍説稿』(西東書房、1934年)
- 『国体の淵源を教ふる国生の物語』(西東書房、1935年)
- 『古代の祝詞に現れたる思想』(日本文化協會出版部、1936年)
- 『平田篤胤』(宝文館、1940年)
- 『我が国体』(神宮司庁、1940年)
- 『櫻史』(桜書房、1941年)
- 『国史に現れた日本精神』(朝日新聞社、1941年)
- 『神道思想史』(明世堂書店 神祇叢書、1943年)
- 『年号読方考証稿』(宝文館、1950年)
- 『典籍雑攷』(宝文館、1956年)
その他
- 『古京遺文』(宝文館、1912年)
- 『一切経音義索引』(西東書房、1923年)
- 『国語政策の根本問題』(宝文館、1932年)
- 『国語尊重の根本義』(白水社、1938年)
- 『国語と国民性』〔「日本文化」第十四冊〕(日本文化協会、1938年)
- 『本邦教育の源』(東京府養正館、1938年)
- 『日本文化と日本精神』(日本文化中央連盟、1939年)
- 『教育に関する勅語義解』(宝文館、1940年)
- 『肇国の精神』〔「日本文化」第五十二冊〕(日本文化協会、1940年)
- 『教育の神髄』(朝日新聞社、1941年)
- 『国民教育と敬神』(宮城県学務部社寺兵事課、1942年)
- 『国語の本質』(白水社、1943年)
- 『敬神の本義』(石川県、1943年)
- 『敬神』(香川県、1943年)
- 『私の欽仰する近代人』(宝文館、1954年)
- 『君が代の歴史』(宝文館、1958年)
著作新版
脚注
注釈
- ^ 小学校授業生の検定受験の際に年齢が少し若すぎたため、誕生日を2年早い1873年(明治6年)5月10日として願書を提出し、それに従って58歳で定年退官した。
- ^ 生活は厳しくて忠雄の『新明解国語辞典』には「ながら」の項に「薄給ながら七人の子供を大学までやった」という用例がある。
- ^ 遺族から旧蔵書の寄贈を受け、1999年(平成11年)11月「山田孝雄文庫」として専用の文庫室に開設し、一般に公開している。蔵書は約1万8千点(洋装和書8800冊、洋書167冊、雑誌445冊、著作840点、和装本6,600点)。
- ^ 例えば「この帽子はお父さんが買ってくれました」という表現において、「は」は主格を表していない。
- ^ 俳諧語談(抄)を収録
- ^ 藤本灯・田中草大・北崎勇帆編
出典
- ^ a b 『東北帝国大学一覧 自昭和8年至昭和9年』東北帝国大学、1934年、345頁。
- ^ 大日本博士録編輯部 編『学位大系博士氏名録 昭和10年版』発展社出版部、1935年、8頁。
- ^ 「国体の本義」編纂委員決まる『大阪毎日新聞』昭和11年6月2日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p712 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『神宮皇学館一覧 昭和15年度』神宮皇学館、1941年、28頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、52頁。
- ^ 『官報』第5804号、昭和21年5月23日。
- ^ “富山市名誉市民” (PDF). 富山市. 2022年8月2日閲覧。
参考文献
- 書籍
- 大田栄太郎『山田孝雄想い出の記』富山市民文化事業団、1985年3月。
- 山田俊雄 編『山田孝雄博士著作年譜』宝文館、1954年7月。
- 論文
- 大岩正仲「山田孝雄伝(その1)」『文法』第1巻第1号、明治書院、1968年11月。
- 大岩正仲「山田孝雄伝(その2)」『文法』第1巻第2号、明治書院、1968年12月。
- 大岩正仲「山田孝雄伝(その3)」『文法』第1巻第3号、明治書院、1969年1月。
- 大岩正仲「山田孝雄伝(その4)」『文法』第1巻第4号、明治書院、1969年2月。
- 大岩正仲「山田孝雄伝(その5)」『文法』第1巻第5号、明治書院、1969年3月。
- 斎藤倫明「山田孝雄」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月。
- 佐藤喜代治「〈日本語学者列伝〉山田孝雄(一)」『日本語学』第2巻第12号、明治書院、1983年12月。
- 佐藤喜代治「〈日本語学者列伝〉山田孝雄(二)」『日本語学』第3巻第1号、明治書院、1984年1月。
- 佐藤喜代治「〈日本語学者列伝〉山田孝雄(三)」『日本語学』第3巻第2号、明治書院、1984年2月。
- 仲井文之「山田孝雄にとっての篠山に関する一考察」『富山国際大学子ども育成学部紀要』第9巻第2号、富山国際大学子ども育成学部、2018年3月。
関連文献
外部リンク
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
山田孝雄に関連するカテゴリがあります。