鈴木淳 (作曲家)
鈴木 淳(すずき じゅん、本名:藤田 順二郎(ふじた じゅんじろう)[1][2]。1934年2月7日 - 2021年12月9日)は、日本の作曲家、音楽プロデューサーである。 夫人は元女優で作詞家の悠木圭子、前妻は作詞家の有馬三恵子。鈴木淳音楽事務所所属。 来歴・人物1934年(昭和9年)2月7日、山口県防府市の防府天満宮の宮司の子息として生まれる。 山口県立防府高等学校、早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、音楽之友社に入社、音楽雑誌の編集を手がけるが、過労により郷里に戻り、入院生活を送る[3]。2年間の療養生活を経て、さらに2年間、同地の女子高校に国語科教諭として勤務する[3]。合計4年の時期を経て東京に戻り、音楽之友社に復帰、音楽雑誌『教育音楽』『ポップス』の編集に携わり、『ポップス』編集長に就任する[3]。 1963年(昭和38年)、満29歳のとき、西田佐知子に提供した楽曲『恋なんてしたくない』(作詞真神啓)の作曲でレコード作家としてデビューする[3][4]。1967年(昭和42年)、当時の妻であった有馬三恵子が作詞、鈴木が作曲して伊東ゆかりに提供した楽曲『小指の想い出』がヒットし、伊東が同年の第9回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、鈴木は職業作曲家として認知され、有馬とも「おしどり夫婦」として知られることとなる[3][5]。1969年(昭和44年)には、同郷の防府市出身の女優であった藤田佳子(現在の悠木圭子)の作詞家としてのデビュー作、小川知子『さよならがこわいの』の作曲を手がける[4][6]。のちに有馬と離婚、悠木と再婚し、1973年(昭和48年)、悠木作詞、鈴木作曲の八代亜紀への提供曲『なみだ恋』をヒットへ導き、悠木を本格的に作詞家に転向させる[6]。 1970年(昭和45年)1月5日に放送開始したオーディション番組『全日本歌謡選手権』( - 1976年12月25日、よみうりテレビ)に審査員としてレギュラー出演を開始、八代亜紀らのデビューのきっかけに貢献する。 1982年(昭和57年)、日本作曲家協会の理事に就任、2000年(平成12年)、同協会理事長に就任、2004年(平成16年)に理事長を退任する[3]。1995年(平成7年)、日本音楽著作権協会の理事に就任、2007年(平成19年)まで務める[3]。 1998年(平成10年)、第40回日本レコード大賞で、吉田正賞を受賞する[3][7]。2004年(平成16年)6月、エイベックスでJ-moreレーベルを立ち上げ、姉妹デュオであるO'sのプロデュースを手掛ける。2005年(平成17年)、春の叙勲で芸術文化功労として旭日小綬章を受章する[3]。 長年、ちあきなおみ、八代亜紀、黒木憲、田川寿美、椎名佐千子など、演歌の楽曲提供を行っている。鈴木淳音楽事務所内に、レーベル「クレオ」、鈴木淳音楽学院を併設している[8]。実家である防府天満宮の現在の宮司・鈴木宏明は甥にあたり[9]、境内には「浮雲」(作詞:悠木圭子、歌:香西かおり)の歌碑が建てられている[10]。 2021年(令和3年)12月9日、東京都内の自宅にて虚血性心不全により死去[11]。87歳没。 おもな楽曲特筆以外は作曲作品、提供先の歌手名の50音順による一覧である。JASRACには2023年8月現在、856曲が登録されている[4]。
楽曲提供したアーティスト広東語版
鈴木淳音楽事務所有限会社鈴木淳音楽事務所(-すずきじゅんおんがくじむしょ)は、日本の音楽事務所である。鈴木淳音楽学院(すずきじゅんおんがくがくいん)を運営する。 脚注
外部リンク
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