あゆみの箱
一般社団法人あゆみの箱(あゆみのはこ)は、日本の慈善団体。芸能人による街頭募金活動の草分け的存在として知られ、東京都募金許可第一号の団体でもある[1][2]。映画や演劇など文化活動を通じた福祉の増進や、社会福祉事業の発展への貢献を目的とする[3]。 2016年に公益財団法人としての活動をいったん終了したが、2020年に一般社団法人として活動を再開した。 歴史ワクチン不足から全国的に小児麻痺が大流行した1963年、映画監督の川島雄三が同病の後遺症により他界[3]。川島と親交の深かった俳優の伴淳三郎が、川島に教えられた心身障害者施設を訪問し、小児麻痺に苦しむ入所者の境遇を目の当たりにすることとなる[3]。伴は「小児麻痺で苦しむ子供たちに光を当ててあげよう」と、川島の墓前で誓いを立てた[3]。一方同じ頃、俳優の森繁久彌も家族で募金活動を続けており、両者は同じ仕事先で意気投合し奉仕活動を始める[3]。 「あゆみの会」が社団法人として発足したのは、同年12月23日のことであった[3]。創設に関わった伴や森繁の他、初代水谷八重子および秋山ちえ子を加えた4名が常任理事に選任[3]。撮影所の大道具担当者が撮影現場の余った板木から募金箱を作成、4人は役者仲間と共に劇場や街頭、ロケーション撮影に行く列車の中で募金を呼びかけてゆく[3]。 1965年2月6日には、伴と森繁の他、坂本九、フランキー堺や淡島千景ら多くの芸能人が参加した、第1回チャリティーショー(東京都、厚生省、日本医師会後援[4])を新宿厚生年金会館にて開催[5]。以後都内のみで22回(うちフジテレビ系列での中継20回)開催、名古屋市や福岡市、札幌市などの他、海外(ハワイ、サンパウロ、サンフランシスコ、ロサンゼルス各2回、リマ1回)でもチャリティーショーが行われた[6]。 1965年春、伴と森繁がワイドショー「小川宏ショー」(フジテレビ系)に出演。募金額が700万円に上ったこと、その募金で歩行器を購入し、全国120ヶ所の施設に寄付することを発表した[3]。募金箱の名称を「この募金箱によって、手足の不自由な子どもたちが歩めるように」との思いを込め、「あゆみの箱」と命名したことも併せて公表することとなる[3]。番組内で題字を公募した結果、当時大分県別府市の大分県立養護学校整肢園校舎に在校していた、小学4年生の女児の作品が選ばれ[3]、「あゆみの箱」で用いられていた。 その後、全国重症心身障害児センター(東京都世田谷区三宿)に建設資金を寄付(1966年)、心身障害児療育訓練施設のやすらぎ荘(福岡県筑前町)建設(1971年)に関わるなど、福祉活動を積極的に進めた[3]。また、2011年3月11日に東日本大震災が発生すると、街頭募金を月1回のペースで実施[3]。被災地の福祉施設へ義援金を送った[7]。 運営上の事情により公益社団法人としては2016年12月[9]に解散した(2017年5月に団体登記を終了[10])が、募金活動に参加していたタニザワフーズ株式会社(愛知県岡崎市)が活動の継続を模索。旧あゆみの箱より募金箱やロゴなどの意匠登録を譲り受け、2018年10月1日より外郭団体を設立。2020年7月に事業の一切の移管を受け「一般社団法人あゆみの箱」として活動を開始、自社店舗に募金箱を設置した[11]。事業目的に旧法人が推進してきた障害者福祉への貢献と共に、子どもたちへの食育の推進や多様な人との共食の場の提供を加えている[12]。 年譜社団法人 あゆみの箱・公益社団法人 あゆみの箱
一般社団法人 あゆみの箱
組織
過去※ 以下は、「公益社団法人あゆみの箱」2017年の解散時[10]のものである。
この他、正会員41名(2013年3月現在)、賛助会員23名、募金箱会員7895名から構成[14]。 活動
アマチュア無線家向け広報活動設立50周年を迎えた2013年12月1日から翌年1月31日にかけて、日本アマチュア無線連盟(JARL)特別局「8N1AB」を運用[20]。通常オペレーターに参加できるのはJARL会員のみだが、非JARL会員でもゲストオペレーターという形で「8N1AB」の運用が可能であった[20]。 年会費・特典旧あゆみの箱の会員は年会費が1万円、個人会員は年会費が3000円[21]だった。会員になると、会員証の発行、バッジの贈呈、会報(年1回)、イベント案内の特典が付いた。 募金の方法募金箱これまで5度リニューアルが図られており、2007年に6代目となる[22]。2代目以降現在まで使われているものは木製か強化ダンボールを使用している(5代目のみプラスチック製)[22]。 旧あゆみの箱時代には、商店、飲食店、レストラン、銀行、信用金庫、ホテルなど、日本国内各地に約8000箱が設置された。過去24000箱を超える出庫を記録したことから、より多くの賛同者を募るべく広報活動も行なっていた(「もう一箱運動」)[23]。募金箱をおいていた金融機関としては、青森銀行、岩手銀行、神奈川銀行、高知銀行、荘内銀行、七十七銀行、スルガ銀行、中京銀行、東京都民銀行、名古屋銀行、西日本シティ銀行、東日本銀行、山形銀行、北空知信用金庫、さがみ信用金庫、さわやか信用金庫、城北信用金庫、豊田信用金庫、西尾信用金庫の各支店と、あおぞら銀行新宿支店、西武信用金庫恵比寿支店などがあった[21]。 新あゆみの箱の募金箱は、三河産の木材を利用して初代のデザインに近い温かみのある箱を作成。法人母体のタニザワフーズの各店舗に箱が置かれている。 振込旧あゆみの箱時代には、提携金融機関の他[21]、募金箱を設置している金融機関で寄付の振り込みが可能だった[21]。 坂本九と「あゆみの箱」歌手、映画俳優、司会者の坂本九は、生前この「あゆみの箱」運動に熱心に取り組んだ[24]。 上述の通り、創設間もない頃から街頭募金活動やチャリティショーに参加[25]、その後は手話の普及や「ふれあい広場・サンデー九」(札幌テレビ、1976年 - 1985年)の司会を務めるなど、一連の福祉関連の慈善事業に関わるようになった。また、1965年に自身が発表したシングル盤レコード『ともだち』は、あゆみの箱のテーマソングとして世に出たものでもある。 坂本九の熱心なチャリティ活動は世間の評価を受け、坂本自身も伴や森繁の後継者とも目されていた。周囲も「次の世代は、九ちゃんがあゆみの箱を背負ってやるんだ」と納得していたという[26]。しかし、1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故により43歳で死去。 妻の柏木由紀子や娘の大島花子は坂本の遺志を受け継ぎ、理事の黒柳を通じ「あゆみの箱」事務局を訪問、障害者支援団体の立ち上げを計画していた[26]。 関連書籍
外部リンク
関連項目
脚注
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