この恋は雲の涯まで
『この恋は雲の涯まで』(このこいはくものはてまで)は、宝塚歌劇団のミュージカル作品。植田紳爾作。 よく「この恋は雲の果てまで」と誤記される。 概要![]() ![]() 本作の初演は1973年、翌1974年に退団が決まっていた花組男役トップスター甲にしきのために植田紳爾が書き下ろした劇団オリジナル作品。 兄源頼朝に追われる身となった源義経が、奥州藤原氏やアイヌ族(ウタリ)、生涯最愛の女静御前らの助けによりモンゴルに逃れ、チンギス・ハーンになったという伝説をもとにした。また植田の、宝塚グランドロマンを冠した一本立てミュージカルの記念すべき第一作でもある。 上演脚本は植田一人で書き上げたが、振付に“外部”より尾上松緑 (2代目)を招聘、また演出は植田と尾上の二人共同で担当した。 1992年の再演時に、中国での場面がさらに加筆された。 あらすじ1992年の内容をもとに記述しています 第一部 蝦夷の鈴蘭1189年、奥州に留まる源九郎義経らに藤原泰衡が突然攻撃をしかける。義経は吉次の進言に従い、杉目小太郎を身代わりにして、藤原忠衡とともに蝦夷に落ち延びる。一方の静御前は狂ったふりをしていたが、義経が生きていることを聞き蝦夷で合流する。 蝦夷のウサップ部落でチャレンカらの善意で身を寄せるが、彼女やセトナの恋慕を拒んだために、再び居場所を失う。オサヤは義経一行を落ち延びさせるが、息子と共に矢に射抜かれて死ぬ。義経一行は船も焼かれいよいよ追い詰められるが、翻意したチャレンカがアイヌの男たちを追い払った。 義経は死も覚悟するが、間一髪で王陵の手配した船が間に合い、大陸へ向け出発する。しかし嵐に遭遇し、義経の愛に満足した静は自ら海に身を投げ、海神の怒りを鎮め嵐をおさめた。 第二部 砂塵のイリス1194年、義経一行が大陸へ渡り5年が過ぎた。人望を得た義経はモンゴルを一つにまとめ、兵800名余りを率いていた。宋国を目指す義経らは、金国を通らねばならない。しかし、義経の軍事力・統率力を恐れた宰相・承暉により嫌がらせを受ける。栄勲がその場をまとめ、義経にも好意的に接した。 栄勲と承暉は対立している様に見せかけ、実はクーデターの計画を語らっていた。女奴隷のカンは、魂の様に大切にしていた笛を承暉に奪われ、義経殺害を命じられる。その夜栄勲の説得で王宮に訪れた義経に、カンが近づくも義経が静に対し、今も深い愛情を持っていることを知ったカンは、顔のベールを外す。 …カンこそが名を変え身を落とした静だった。貞節を守ること(=死)よりも、生きて義経と再会することを望んだと語り、見を引こうとする静を義経は引き止め、宋へともに行こうと語りかけるのだった。しかし再会の喜びも束の間、カンは思い残すことは無いと自害してしまった。 義経は奴隷のテフから、栄勲が実は承暉と親しく、しかもカンを愛妾にしていたことを聞かされ、栄勲と雌雄を決する。しかし、戦いの中で栄勲は自害を図り真意を語る。承暉の悪事に加担しているように見せかけ国王を守っていたと言う。義経に国王を託し、そして静の件を詫び絶命した。 義経が宋へ去った隙に、モンゴル軍は承暉に攻撃され窮地に陥っていた。そこへ国王を擁して義経は帰還する。そして彼は高らかに宣言する、「今日よりモンゴルの民・成吉思汗(ジンギスカン)と名乗る」と。 新たな名の“カン”とは、死んだ静の名であった。 登場人物
第一部
第二部
主な楽曲
(作詞 : 植田紳爾 作曲 :寺田瀧雄)
(作詞 :(静御前) 作曲 : 寺田瀧雄)
(作詞 : 植田紳爾 作曲 : 入江 薫)
(作曲 : 入江 薫) これまでの公演
スタッフ1973年花組・宝塚
1973年花組・東京
1973年星組・宝塚
(続編) 1992年雪組
配役一覧
関連項目脚注
参考文献
|
Portal di Ensiklopedia Dunia