アニーローリー『アニー・ローリー』(Annie Laurie)は、代表的なスコットランド民謡として知られる楽曲。ウィリアム・ダグラス(William Douglas 1672? - 1748)の詩をもとにして作られた。作曲はスコットランドの女流音楽家ジョン・ダグラス・スコット夫人(Lady John Douglas Alicia Scott=アリシア・スコット;1810 - 1900)。 歌詞原曲は、次の歌詞でよく知られている[1]。
歌の由来実在の女性であったアニー・ローリー[2]は、マクスウェルトン卿のサー・ロバート・ローリーの末娘[3]だった。1682年12月16日に父親の館であるマクスウェルトン・ハウス[4]で生まれた。スコットランド中に知られた美人だったといわれている。詩は、1700年ごろにフィングランドの郷紳(ジェントリー)ウィリアム・ダグラスによって書かれたものである。言い伝えによれば、アニー・ローリーとウィリアム・ダグラスは相思相愛であり、またアニー・ローリーからも親に許しを早くもらうように求められたために、ウィリアム・ダグラスは彼女に結婚を申し込み、本人は了承していたので、アニー・ローリーの父親へ許しを求めたが、歳の差、彼女がまだ若すぎること[5]、ウィリアム・ダグラスの父親が、ローリー家とは内戦中の敵対勢力に属していることによる、政治的な立場の相違(氏族間の対立)などで、アニー・ローリーの父親であるマクスウェルトン卿から強く反対されて遠ざけられたという。ウイリアム・ダグラスは悲しみに暮れ、アニーを思い続けてこの詞を書いたのである。その後に恋の痛手からようやく立ち直ったころに、エリザベス・クラークという女性と出会い駆け落ちをした。 一方、アニー・ローリーは、1710年にクレイグダーロックの領主アレクサンダー・ファーガソン(Alexander Fergusson)のもとに嫁ぎ、約33年間そこで暮らした。 彼女のために大邸宅が建設され、彼女の好みで作られたという庭園も残されている。没年は定かではないが、1761年に亡くなりクレイグダーロックに埋葬されたと言い伝えられている。 マクスウェルトン・ハウスには、今も彼女の肖像が残されており、その昔ウィリアム・ダグラスの心をとりこにしたという青い瞳の佳人の姿をうかがい知ることができる。また、彼女の夫がジェームス・ファーガソン[6]であったとの説もあるが、誤伝である。 曲は1838年2月にスコットランドの女流音楽家ジョン・ダグラス・スコット夫人(=アリシア・スコット;1810 - 1900)が作曲。ウィリアム・ダグラスの詩は、何度か手直しされたといわれている。 そして、1854年のクリミア戦争で、未亡人や孤児となった人たちへの慈善活動のために出された歌集にこれが載せられたことから、やがて軍楽隊も演奏するようになり広く知られるようになった。戦地の兵士たちもこの歌を口ずさみ、故郷にある大切な人をしのんだという。 古くからのレコーディング英語圏を初め広く知られることとなったこの曲は、多くの有名な歌手がレコーディングを遺している。有名な歌手で初めのレコーディングは、アメリカビクタートーキングマシーン社で1906年に、ドイツでの修行を終え、凱旋帰国をしたアリス・ジェラルディン・ファーラーが録音をしアメリカでビクターから、欧州ではそのころは同一資本であったイギリスグラモフォン社から、レコードが発売された。次は同じくアメリカのリリアン・ノルディカが1911年アメリカコロムビアで録音をし、リボンレーベルで発売され、欧州ではイギリスコロムビアがピンクのレーベルにピンクのジャケットで発売された。以上の2枚は1番と2番の歌詞での録音であった。この次が、1913年にオーストラリアのソプラノ歌手ネリー・メルバがアメリカビクターで録音をしたが、歌詞は1番と3番で歌を歌った。このころは機械録音のSP盤で、1,2,3番と歌うには、時間が足りないためであった。 カナダの映画女優で、歌もオペラ、クラシックの歌謡曲リートからポップスのようなものまで歌いこなしていたディアナ・ダービン(本人はあくまで俳優であるという)の録音も存在している。 ほかにアイルランドのテノール歌手ジョーン・マコーマックが録音し、レコードを発売している。歌詞的には男子のダグラスが、結ばれぬ恋人であるアニー・ローリーを歌ったのであるから、男性歌手が歌う方が合っていたのかもしれないが、数多く和訳され、日本でも鮫島有美子、倍賞千恵子や、安田道代、由紀さおり姉妹など、女性が歌うものが多くある。 日本語詞日本語詞は、緒園凉子のものをもとに[7]、原詞の表現を加味して作成した。
ほかにも堀内敬三、藤浦洸、茂原二郎、山口隆俊、深尾須磨子、鮫島有美子、渡辺実典の訳詞がある。 才女日本には初め、明治時代にまったく別の歌詞で『小学唱歌集』に「才女」という題で伝えられた[10]。また若干旋律も変更して歌われた[11]。
前半は紫式部が名作『源氏物語』を世に残したことを、後半は清少納言が大雪の朝に中宮定子の問いかけに御簾を巻き上げて応えた才女ぶりを歌っている。 備考駅などでの放送としての使用
派生作品
脚注
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