アーセナルFC対マンチェスター・ユナイテッドFC
この項では、イングランド(イギリス)に本拠地を置く2つのサッカークラブ、アーセナルFCとマンチェスター・ユナイテッドFCの1992年から2013年までの対戦について記述する。 両クラブは長い歴史と伝統を持っており、お互いに強いライバル意識を持っている[1]。 背景1919年以来、両クラブはほとんどのシーズンを同じディヴィジョンで過ごしているが、ライバル意識が高まったのは1990年前後からである。アレックス・ファーガソン監督は1986年からマンチェスター・ユナイテッドを、アーセン・ベンゲル監督は1996年からアーセナルを率いており、ともにイングランドサッカー史上最長の在任期間を誇る監督の一人である[2][3][4]。この対戦では試合中に騒動が発生することも多く、バトル・オブ・オールド・トラッフォードと呼ばれる1990年、2003年の試合や、バトル・オブ・ザ・ビュッフェと呼ばれる2004年の試合での出来事などがよく知られている。近年は両クラブの低迷により、その激しさはなくなっていたと思われていたが、22-23シーズンの両クラブの好調ぶりからライバル関係がまた復活したとの見方もある[5]。 歴史対立の起源ミュンヘンの悲劇 1958年2月6日に起こったミュンヘンの悲劇では、センターバックのロジャー・バーン、右サイドハーフのエディ・コールマン、センターハーフのマーク・ジョーンズ、左サイドハーフのエドワーズ、フォワードのテイラー、リアム・ウェラン、デヴィッド・ペッグ、ジェフ・ベントの選手8人を含む23人が死亡した。同年2月1日にハイベリーで行なわれた両者の対戦は、マンチェスター・ユナイテッドにとってはミュンヘンの悲劇が起こる直前の試合となった。ユナイテッドはトミー・テイラー(2得点)、ダンカン・エドワーズ、ボビー・チャールトン、デニス・ヴァイオレットが得点し、5-4で勝利した。 1979年のFAカップ決勝 1979年5月12日、10万人もの観客を集めたFAカップ決勝で両者の対戦が実現した。試合はアーセナルがブライアン・タルボットとフランク・ステープルトンの得点によって、前半を終えて2-0でリード。試合終了5分前でもそのスコアに変化はなかったが、86分にユナイテッドのゴードン・マックィーンがアーセナルのゴールをこじ開けると、その2分後にはサミー・マクロイが同点ゴールを決めた。延長にもつれ込むかと思われたこの試合は、試合終了間際にアーセナルのアラン・サンダーランドが3-2となるゴールを挙げ、終盤のシーソーゲームを制したアーセナルが優勝を果たした。 1989-90シーズン 1986年、アレックス・ファーガソンがユナイテッドの監督に就任したが、1986-87シーズンからの3シーズンはタイトルに手が届かなかった。1989-90シーズン開幕戦の1989年8月19日、ユナイテッドはオールド・トラッフォードにリーグ王者のアーセナルを迎え、スティーヴ・ブルース、マーク・ヒューズ、ブライアン・マクレアー、新加入のニール・ウェブの得点で4-1の勝利を収めた。このシーズンは勝ち点79を獲得したリヴァプールが優勝し、アーセナルは勝ち点62の4位に終わった。しかしユナイテッドは無残なシーズンを送り、降格圏まで勝ち点5差に迫る13位に終わったが、FAカップでは優勝した。 1990年代1990年10月20日にオールド・トラッフォードで行なわれた試合は悪名高く、一般に両者のライバル意識が芽生え始めた試合だとされている。ファーガソン監督は、「ライバル意識の形成はこの試合より数年前に遡るだろう。1987年1月の試合では、デヴィッド・ロカッスルがノーマン・ホワイトサイドに対して報復行為を行い、退場処分を受けた」と述べている[6]。1990-91シーズンのアーセナルはわずか1敗しか喫せず、1991年5月6日にジョージ・グラハム監督の下で2度目のリーグ優勝を果たした。この優勝は、2位のリヴァプールが一足早く行なわれていたノッティンガム・フォレスト戦で敗れたため、ハイベリーでマンチェスター・ユナイテッド戦のキックオフを待っている際に決定したものである。アーセナルはユナイテッドを3-1で下してリーグ優勝に花を添えた。このシーズンはすでに2回の対戦が行なわれており、一つは1990年10月20日にオールド・トラッフォードで行なわれたリーグ戦であり、こちらもかなり荒れた試合となった。もう一つは11月28日に行なわれたリーグカップ4回戦であり、ハイベリーで行なわれた試合はユナイテッドが6-2で勝利して勝ち上がりを決めた。この試合では当時19歳のウインガー、リー・シャープがハットトリックを達成した。 2000年代2003-04シーズンのプレミアリーグはアーセナルが無敗優勝を遂げ、「無敵(The Invincibles)」の称号を獲得した。オールド・トラッフォードでユナイテッドと0-0で引き分けた試合はバトル・オブ・オールド・トラッフォードと呼ばれて語り継がれている。この試合でアーセナルのキャプテンパトリック・ヴィエラは、80分に2枚目のイエローカードを提示されて退場処分を受け、後半ロスタイムには、アーセナルのディフェンダーであるマーティン・キーオンが、自陣ペナルティエリアでユナイテッドのディエゴ・フォルランを押し倒してPKの判定を受けた。ユナイテッドはルート・ファン・ニステルローイがボールをセットしたが、ファン・ニステルローイのPKはクロスバーに当たって跳ね返り失敗に終わった。アーセナルの選手は歓声を挙げ、特にキーオンはファン・ニステルローイに近寄ってシュートミスを喜んだ。両者は乱闘となり、試合終了の笛が吹かれた後には他の選手たちも騒動に加わった。結局、両クラブの計4選手にイエローカードが提示されている。両者の次の対戦はハイベリーで行なわれたが、1-1の引き分けに終わり、このシーズンの対戦は2引き分けとなった。 無敗優勝を果たしたこのシーズン、アーセナルは勝ち点90を獲得し、勝ち点75のユナイテッドは3位に終わった。これによりユナイテッドの存在感が覆い隠されたため、ヴィエラとロイ・キーンのように両クラブの選手間で口論や取っ組み合いの喧嘩すら起こり、両者の真なる憎悪の歴史が始まった。アーセナルはイングランド史上最長の無敗記録を49試合まで伸ばしたが、この記録を止めたのはユナイテッドである。アーセナルが敗れたこの試合は両者のライバル意識を増長させる大きなきっかけとなり、後にバトル・オブ・ザ・ビュッフェ(Battle of the Buffet)と呼ばれた。2004-05シーズンのFAカップ決勝は、スコアレスドローの末に決着がPK戦に持ち込まれたが、アーセナルがPK戦を5-4で制して優勝を決めた[7]。 2010年代2010年12月、ユナイテッドのファーガソン監督は、ユナイテッドサポーターに対して私的な嘆願を行なった。ユナイテッドサポーターはベンゲル監督に対して「病気」チャントを歌うことがあり、クラブがこのようなチャントに当惑していると伝えた[8]。2010-11シーズンは両クラブが優勝争いに絡み、シーズン終盤の34節に行なわれたダービーでは、2008年11月以来となるアーセナルの勝利に終わった。ユナイテッドは残り3試合の時点で首位に立っていたが、勝ち点3差の2位にチェルシー、勝ち点6差の3位にアーセナルが迫っていた。しかし、結局ユナイテッドがリーグ優勝し、チェルシー(勝ち点9差の2位)とアーセナル(勝ち点12差の4位)は大きく離された。 2011年8月にオールド・トラッフォードで行なわれた試合は、ユナイテッドが8-2で勝利を収めた。アーセナルは1927年にウェストハム・ユナイテッドに0-7の敗北を喫しているが、この試合はリーグ戦ではこのウェストハム戦以来84年ぶりとなる大敗であった[9]。アーセナルが8失点したのは1896年のセカンドディヴィジョン・ラフボロウFC(現存しない)戦(0-8)以来である[10]。2012年8月、2011-12シーズンのリーグ得点王でアーセナルのキャプテンを務めていたロビン・ファン・ペルシは、アーセナルの契約延長を拒否し、アーセナルからマンチェスター・ユナイテッドに移籍した。これを非難したアーセナルサポーターは、ファン・ペルシに激しいブーイングとチャントを送った。 移籍アーセナルからマンチェスター・ユナイテッド
マンチェスター・ユナイテッドからアーセナル
試合一覧
プレミアリーグアーセナルのホームゲーム![]()
マンチェスター・ユナイテッドのホームゲーム![]()
対戦での通算得点数
その他の大会
脚注
外部リンク
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