ウェストハム・ユナイテッドFC
ウェストハム・ユナイテッド・フットボール・クラブ(West Ham United Football Club)は、イングランドの首都ロンドン東部をホームタウンとする、イングランドプロサッカーリーグ(プレミアリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。愛称はハマーズ(Hammers)、アイアンズ(Irons)。 概要ロンドンっ子の象徴とされるコックニー訛りが飛び交う東ロンドンの下町地域に本拠を構える。サポーター層は純労働者階級が多数である。ロンドンの同地区を本拠地とするミルウォールFCやレイトン・オリエントFCとの対戦がダービーマッチに当る。 クラブの特徴は、育成に実績のあるユース組織を備えており、有望な若手を発掘、育成し、ビッグクラブへ放出するという典型的な「売り手」型であるといえる。近年はその傾向が顕著で、ジョー・コール、リオ・ファーディナンド、フランク・ランパード、マイケル・キャリック、ジャーメイン・デフォー、 デクラン・ライスなどのイングランド代表選手は皆ウェストハムのユース出身である。彼らはトップチームで頭角を現し、後にビッグクラブに移籍している。 現在のホームスタジアムはロンドン・スタジアムで、2016年に1914年から112年間、本拠地として使用したアップトン・パーク(収容人数35,303人)から移行した。スタジアムでは、クラブの代表的な応援歌でもある「I'm Forever Blowing Bubbles」が試合開始前後にシャボン玉とともに流れ、サポーターはサビ部分をアカペラで合唱する。 92チームの中で、歴代の監督数が最も少ないという記録を持っており、126年間の歴史の中で、監督は22人(暫定監督も含む)のみである。しかし、2000年代に入ってからは成績が安定しないせいか、監督交代が相次いでいる。 歴史2000年代以前1895年、東ロンドンの造船会社テムズ・アイアンワークス(Thames Ironworks)の社員チームとして結成された。クラブの愛称「アイアンズ」「ハマーズ」はこのルーツに由来する。1898年に南部2部リーグに加入しプロ化され、その後1部に昇格。クラブの運営をめぐる争いの末、テムズ・アイアンワークスFCは1900年に解散し、その後すぐにウェストハム・ユナイテッドFCが結成された。 南部1部リーグでの試合を続けながら、1901年にウエスタンリーグに加入した。1907年にウエスタンリーグ1B部のチャンピオンとなると、1A部のフラムを1-0で破り、ウエスタンリーグで優勝した。 ![]() 1919年にフットボールリーグ2部に加入し、1923年に1部に昇格。同年には初のFAカップ決勝に進出した。この時の対戦相手はボルトンである。1932年に2部に降格し、その後の30年はほとんどを2部で過ごしたが、1958年に再び1部に昇格した。1940年にフットボールリーグウォーカップで初優勝した。 1961年、ロン・グリーンウッドが監督に就任すると、1964年にFAカップ優勝、1965年にUEFAカップウィナーズカップ優勝を果たす。1966年のFIFAワールドカップの時のイングランド代表の主要メンバーは、キャプテンのボビー・ムーア、マーティン・ピータース、ジェフ・ハーストといったウェストハムの選手達であった。1974-75シーズンにグリーンウッドは総合監督に就任し、アシスタントのジョン・ライアルを監督に任命した。1976年に再びUEFAカップウィナーズカップ決勝に進出したが、2-4でアンデルレヒトに敗れた。FAカップは1964年、1975年、1980年に優勝。1923年と2006年にも決勝に出場した。 2000年代2004-05シーズンにチャンピオンシップで6位ながらも、プレミアリーグ昇格プレーオフで勝利を収めて昇格を果たした。昇格直後の2005-06シーズンのリーグ戦で9位に入り、FAカップでも準優勝している。クラブは2006年11月に、実業家エガート・マグヌソン率いるアイスランドのグループによって1億2600万ユーロ(約200億円)で買収された。マグヌソンはアイスランド・サッカー協会会長とUEFA理事会理事を兼任している。 2006-07シーズン、初めにワールドカップ・ドイツ大会で活躍したアルゼンチン代表のカルロス・テベス、ハビエル・マスチェラーノを補強して注目を集めたが、同シーズンは前シーズンから一転して苦しい戦いとなった。開幕から数試合はまずまずの成績だったものの、その後ほとんど勝てなくなり、3月4日、トッテナムとのロンドンダービーでショッキングな逆転負けを喫するとついに最下位に転落してしまう。しかし3月17日のブラックバーン戦で勝利すると、最後の9試合を7勝2敗の好成績で乗り切り、最終的に15位でシーズンを終えた。 2007-08シーズンはプレミアリーグ10位で終わった。2008-09シーズンは早々、2006年12月より前監督アラン・パーデューに代わり指揮をしていたアラン・カービシュリー監督が辞任し、ジャンフランコ・ゾラがクラブ史上の12人目の監督に就任した。2009-10シーズンは降格圏と勝ち点5差の17位で終わり[4]、シーズン終了2日後の2010年5月11日にゾラを解任し[5]、6月3日、アヴラム・グラントが4年契約で監督に就任した[6]。 2010年代2010-11シーズンはシーズンを通して降格圏に低迷し、2011年5月15日にウィガンにアウェーで2-3で敗れてチャンピオンシップへの降格が決まった。試合後にグラントを解任し[7]、6月1日、サム・アラダイスが監督に就任した[8]。 2011-12シーズンはリーグ3位で昇格プレーオフに回り、準決勝でカーディフ・シティを破り、2012年5月19日に行われた決勝でブラックプールに2-1で勝利して1年でプレミアリーグに復帰した[9]。以降のシーズンではプレミアリーグに定着しているものの、2013-14シーズンはシーズン途中にディラン・トンビデスを精巣がんで亡くしてしまう。2014-15シーズンはマウロ・サラテ、シェイフ・クヤテ、エネル・バレンシア、ディアフラ・サコ、アレクサンドル・ソングらを獲得した一方で、ジョー・コールやアルー・ディアッラらを放出した。冬の移籍市場ではネネを獲得。 2015-16シーズンはペドロ・オビアング、ディミトリ・パイェ、アンジェロ・オグボンナ、マヌエル・ランシーニ、ニキツァ・イェラヴィッチ、マイケル・アントニオ、ビクター・モーゼスを獲得。またソングをバルセロナから再獲得した。一方でカールトン・コール、ネネ、スチュワート・ダウニング、ケヴィン・ノーランらを放出。 2016-17シーズンより、本拠地を2012年ロンドンオリンピックとパラリンピックのメイン競技場として使用されたロンドン・スタジアムに移した。移籍市場ではソフィアン・フェグリ、アンドレ・アイェウ、ホーヴァル・ノルトヴェイト、アルバロ・アルベロア、ギョクハン・トレ、シモーネ・ザザらを獲得した。冬の移籍市場ではパイェがオリンピック・マルセイユに移籍したが、ジョゼ・フォンテ、ロバート・スノッドグラスを獲得した。 2017-18シーズン、夏の移籍市場でパブロ・サバレタ、ジョー・ハート、マルコ・アルナウトヴィッチらを獲得したが、開幕から3連敗など、リーグ序盤戦から低調なパフォーマンスが続き、11月にスラベン・ビリッチ監督を解任した。後任にはデイヴィッド・モイーズを置き、前政権よりかは持ち直したものの、勝ちきれない試合が多く、最終的には、13位でシーズンを終えた。アルナウトヴィッチがチーム最多の11得点を記録した。 2018-19シーズン、監督にチリ人のマヌエル・ペレグリーニを招集し、移籍市場では夏冬通じて10人もの選手を獲得した。スウォンジーからウカシュ・ファビアンスキを、トゥールーズからイッサ・ディオプ、ラツィオからはフェリペ・アンデルソンら獲得した。リーグ戦では開幕から4連敗を喫するなど最悪のスタートとなったが、徐々に復調。結果リーグ10位でシーズンを締めくくった。 2019-20シーズンは低調な出来が続き、20節のレスター・シティ戦の敗北を受けマヌエル・ペレグリーニ監督を解任。後任としてデイヴィッド・モイーズが再び就任した。冬の移籍市場ではハル・シティからジャロッド・ボーウェン、スラヴィア・プラハからトマーシュ・ソウチェクを獲得。モイーズ就任以降は守備が安定し、最終的に16位でシーズンを終えた。 2020年代2020-21シーズンもモイーズ体制が継続。夏の移籍市場ではワトフォードFCからセンターバックのクレイグ・ドーソン、ソウチェクの推薦を受けスラヴィア・プラハからヴラディミール・ツォウファル、ブレントフォードからサイード・ベンラーマを獲得した。開幕戦のニューカッスル・ユナイテッド戦では低調なパフォーマンスで0-2の敗戦を喫し、降格候補の筆頭とも言われた。しかし2節のアーセナルFC戦以降5バックを導入したことで攻守に改善を見せる。3節のウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC戦で4-0と今季初勝利を記録すると、4節のレスター・シティ戦でも3-0と大勝した。5節のトッテナム・ホットスパーFC戦では前半に3得点を浴びるも、80分からファビアン・バルブエナ、ダビンソン・サンチェスのオウンゴール、マヌエル・ランシニのゴールで追いついた。その後も安定したパフォーマンスで勝ち点を積み上げ、1月にはマンチェスター・ユナイテッドFCからジェシー・リンガードをレンタルで獲得。デビュー戦のアストン・ヴィラFC戦で2ゴールを挙げる活躍を見せると、その後もハイパフォーマンスを連発し、トップ下のレギュラーとしてチームを牽引した。UEFAチャンピオンズリーグ出場までにはあと一歩届かなかったものの、最終的にシーズンを6位で終えUEFAヨーロッパリーグの出場権を獲得した。 2021-22シーズン、チェルシーFCからフランス代表センターバックのクル・ズマを約3000万ポンドの移籍金で獲得。さらにCSKAモスクワからクロアチア代表ミッドフィルダーのニコラ・ヴラシッチを完全移籍で獲得。またスパルタク・モスクワからチェコ代表ミッドフィルダーのアレックス・クラールを買取りオプション付きのレンタルで獲得した。 2022-23シーズン、UEFAヨーロッパカンファレンスリーグでは決勝でACFフィオレンティーナを2-1で破って優勝を果たした[10]。 ユニホーム
エンブレムエンブレムは1923年のFAカップ決勝進出時に、チーム発足にちなんだ2本のハンマーを交叉させたマークが使われたのがはじまりである。1950年に正式なエンブレムが決まった。1965年のヨーロッパカップの際にエンブレムに城の図案が追加されたが、この城は地元のブーリン城であり、名称はアン・ブーリンが元になっている。 一時ハンマーのみの図案に戻されたが、1997年にワインレッドと水色、そして城とハンマーを黄色で描くエンブレムになった[11]。現在は再びハンマーのみの図案になっている。 チームカラーのワインレッドと水色の組み合わせは1897年のユニフォームに始まる。諸説あるが、地元の他2チームが使っていた色を採用したとか、強豪のアストン・ヴィラを真似たとか、またある選手がアストン・ヴィラの選手に徒競走で勝ちユニフォームを貰ったことが起源だとの逸話もある。 タイトル国内タイトル
国際タイトル
過去の成績
欧州の成績
現所属メンバー
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、★はホーム・グロウン選手、☆は21歳以下の選手を示す。 ローン移籍選手
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
永久欠番注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
歴代監督→詳細は「ウェストハム・ユナイテッドFCの選手一覧 § 歴代監督」を参照
歴代所属選手→詳細は「ウェストハム・ユナイテッドFCの選手一覧」を参照
表彰ハマーズ・オブ・ザ・イヤーハマーズ・オブ・ザ・イヤー(Hammer of the Year)は、サポーターが選ぶそのシーズンに最も印象的な活躍をした選手に贈られる賞である[13]。 トレヴァー・ブルッキングは1976年から78年にかけて3年連続で受賞した最初の選手である。同時に彼は最多となる5回(1972年、1976年、1977年、1978年、1984年)の受賞回数を誇る。ルデク・ミクロシュコは、イギリス国外の選手として初めて受賞した選手であり、2009年から2011年にかけてはスコット・パーカーがブルッキング以来となる3年連続の受賞を果たした。 生涯功労賞生涯功労賞(Lifetime Achievement Award)は、クラブに多大な貢献をした選手に贈られる賞である[13]。 最初の受賞者には、クラブ最多の出場回数(799試合)を記録するビリー・ボンズはが受賞した[14]。翌年、ハマーズ・オブ・ザ・イヤー最多受賞者のトレヴァー・ブルッキングが受賞。1977-78シーズンにクラブが降格した際、彼は当時イングランド代表のメンバーでありながらクラブに残留することを決断した[15]。2016年にはジョフ・ハーストが受賞。彼は1966年のワールドカップ決勝でハットトリックを達成し、クラブでは1968年のサンダーランド戦で1試合中に6得点を挙げるダブルハットトリックを達成した[16]。
マーク・ノーブル・ヤング・ハマーズ・オブ・ザ・イヤーマーク・ノーブル・ヤング・ハマーズ・オブ・ザ・イヤー(Mark Noble Young Hammer of the Year)は、そのシーズンに最も活躍した若手選手に贈られる賞であり、いわゆるクラブ年間最優秀若手選手賞にあたる。2022年以前はヤング・ハマーズ・オブ・ザ・イヤー(Young Hammer of the Year)という名称であったが、2000年から2022年に引退するまで活躍したマーク・ノーブルに敬意を称え改称された[17]。 デクラン・ライスは2017年から2019年まで3年連続で受賞し、ウェストハムからアーセナルに移籍する際には当時の英国史上最高額である総額1億500万ポンドの移籍金を記録した[18]。
ディラン・トンビデス賞ディラン・トンビデス賞(Dylan Tombides Award)は、アカデミーの優秀な選手に贈られるもので、ウェストハムとU-23オーストラリア代表の選手でありながら2014年4月に20歳の若さでこの世を去ったディラン・トンビデスに敬意を表して名付けられた[13][19]。
脚注
外部リンク
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