イギリス国鉄マーク2客車
イギリス国鉄マーク2客車(イギリスこくてつマーク2きゃくしゃ、英語: British Railways Mark 2)とは、イギリス国鉄が2番目に設計した客車である。1963年から1975年にかけて生産され、以降は後継のマーク3客車に生産が移行した。 概要車体は半一体構造で設計され、車体強度の向上が図られている[1]。マーク1客車で問題となった台枠の腐食問題の解消し窓の設計も変更するなど、整備コストの削減が図られている。 登場当初は主に都市間連絡路線(後のインターシティーも含む)で運用され、前任のマーク1客車や後継のマーク3客車との混成編成での運用も多かった。しかし1994年の国鉄民営化後は電車・気動車の導入が推進され、マーク2客車は新型車両への直接代替や、他社・他路線での新車導入で余剰化したマーク3客車への玉突きにより運用から順次退いた。 形式![]() 1963年にマーク2客車の試作車である13532号(コンパートメント式1等車: FK - First Corridor)が国鉄のスウィンドン車両工場にて製作された。この試作車は現在、保存鉄道のミッド・ノーフォーク鉄道で保存されている。 マーク1客車はイギリス国鉄の技術部門(British Rail works:1969年にBritish Rail Engineering Limited、略称BRELに改名)の工場と複数の民間企業の双方において生産されたのに対し、マーク2客車及びマーク3客車はイギリス国鉄技術部門に所属するダービー車両製作工場(Derby Carriage and Wagon Works)のみで生産された[2]。
マーク2客車で最後に生産された999550号車は、1977年に竣工した。この車両は、現在もネットワーク・レールの路線検査車両(Track Recording Coach)として運用されている[要出典]。 マーク2客車の後期型(マーク2D以後)は、外見上マーク3客車と非常によく似ているが、マーク3客車は全長が長く(マーク2客車の19.66m(64フィート6インチ)に対して、マーク3客車は23メートル(75フィート))、車体下部の台車の間の各種機器類を覆い隠す大型パネルが設置されている。また、マーク2客車の屋根が滑らかなのに対して、マーク3客車の屋根は前後方向に多数の突起が伸びている。 基本仕様
生産数(英国国鉄向け)
派生仕様上記の基本型9車種の新造に加え、これらを改修・改装する形で多数の派生仕様が登場している。
電車・気動車マーク1客車ではその車体設計を採用した電車・気動車が多数登場したが、マーク2客車での事例は少ない。イギリス国鉄での新造例は1966年登場のAM10形電車(1969年のTOPS導入で310形に改称)と、1975年登場の312形の2形式にとどまる。両者とも電気方式は交流25,000V・50Hzの架線集電方式で、民営化後も2004年まで運用された。
改造ではマーク2F客車のうち29両が空港連絡列車「ガトウィック・エクスプレス」用として、488形電車へ改造された。集電装置・動力源・運転台を持たない付随車で、全長が66フィート1/2インチ(20.12m)に延長された以外は種車のマーク2F客車と変化が無い。運行時には、488形電車の両端に、動力車の73形電気機関車と、GLV(Gatwick Luggege Van:ガトウィック荷物車)の489形電車とのプッシュプル編成で運行された。2004年のガトウィック・エクスプレス撤退後に一部が北アイルランド鉄道やネットワーク・レールに引き取られ、現在でも運用されている。
![]() また、中華民国(台湾)の台湾鉄路管理局にとって最初の電車となったEMU100型は、マーク2客車の車体を基に、BRELとGEC社(アメリカのGEとは全く別の会社)が設計・製造したものである。台湾の特急列車「自強号」として、1978年8月15日に西部幹線での運行を開始した。 [3] ![]() 気動車については、北アイルランド鉄道向けに1970年代半ばから生産が始まった80系気動車のみが生産された。北アイルランド鉄道では、2011年9月25日に旅客輸送から退役するまで、運用され続けた。 運用2020年に定期運用は消滅し、現在は主に貸切列車や保存鉄道で運用されている。この他、ニュージーランドで中古輸出車が運用されている。 運用会社一覧
ネットワーク・レール2002年にイギリス全土の鉄道網をレールトラックから買収したネットワーク・レールは、マーク2客車およびマーク3客車を改装した軌道検査車両を数両保有している。[4]その中には、5両のDBSO(Driving Brake Standard Open:運転台付開放2等車)も含まれている。 マーク2客車はHSTをベースとしたNew Measurement Trainの編成には組み込まれず、31形・57形・97形ディーゼル機関車と連結して運用される。 イギリス本土外北アイルランドの北アイルランド鉄道、アイルランド共和国のアイルランド国鉄に新造投入されたほか、両鉄道とニュージーランドに中古車両が売却されている。 北アイルランド北アイルランド鉄道は、北アイルランド首都ベルファストとアイルランド共和国首都ダブリンを結ぶ国際列車「エンタープライズ」での運行用にマーク2B客車を1970年に新造導入した。軌間1,600mmに対応した台車を搭載、車体塗装は栗色と青色で、101形ディーゼル機関車を動力車として運行された。この編成にはマーク2B客車で唯一の食堂車である547号車が含まれており、同車は2008年にアイルランド鉄道保存協会(Railway Preservation Society of Ireland、略称RPSI)によって復元された。 002年には、マーク2F客車改造の元ガトウィック・エクスプレス用付随電車488形の8両を導入し8941 - 8948号へ改番、8911号電源車と編成を組んで運行された。2005年に新型の3000系気動車の導入に伴い一旦退役するが、2006年にはPortadown - ベルファスト間の路線における朝の通勤ラッシュ時の輸送力確保のため再就役し、111形ディーゼル機関車を動力車として1日1往復運行を行っていたが、2009年6月18日の運行を最後に退役した。 アイルランド1972年、アイルランド共和国のCIÉ(アイルランド語: Córas Iompair Éireann:アイルランド共和国交通局?)はBRELに対して、マーク2D客車をベースとした客車を72両発注した。客車の内訳は、1等車が6両(5101-5106)、1等・2等合造車が9両(5151–5159)、2等車が36両(5201–5236)、レストラン/ビュッフェ付2等車×11両(5401–5411)、電源車×11両(5601–5611)である。後には輸送需要の変化に応じて、5両の1等/2等合造車(5153–5156、5158)が2等車に再設定され、レストラン/ビュッフェ付2等車のうちの1両(5408)が、Presidental Coachに改装された。 車内の艤装工事はInchicoreにて行われたが、化粧板に合板を多用したり、座席を各席独立型とするなど、イギリス国鉄仕様とは大きく変化している。この客車は冷房を装備しており、足回りはB4ボギー台車をベースに軌間1,600mmに対応させたうえで真空ブレーキを装備している。 さらに電源規格はイギリス国鉄や北アイルランド鉄道の車両とは大きく異なっている。電源車には2種類の発電用エンジン/発電機のセットが搭載されており、それぞれが220Vと380Vの50Hz交流電源を供給するため、「AC(交流)客車」と言われた。エアコンの機器類は2つに分けられ、それぞれのエアコンは電源供給路が独立している。電源車の発電装置のうちの一つが故障した場合、もう一つの発電装置は両方の空調用の電源供給路に電源を供給するよう設計されており、この場合はエアコンの能力は半減するが、他の照明や調理等の能力低下の発生防止が配慮されている。この電源供給方式は、その後のアイルランド国鉄の客車でも引き続き採用されている。 アイルランド国鉄は1989年に15両の客車を、イギリスのスクラップ業者からほぼ同数のスクラップのディーゼル機関車と引き換えに導入した。旧式のマーク2A・B・C客車は腐食が激しく2004年に廃車となったが、少数の客車が台車を撤去の上でアイルランドの特定の保存鉄道において保管されている。 1972年に導入されたマーク2客車は、2007年から2008年にかけて現役から退き、5106(1等車)と5203(2等車)、5408(Presidental Coach)の3両がアイルランド鉄道保存協会にて保存されている。 ニュージーランドニュージーランドでは、100両以上のマーク2D/E/F客車のFO車とTSO車の譲受車が運用されている。 ニュージーランドの鉄道路線は山岳地帯でも建設が容易なように、日本でも一般的な1,067mm軌間で敷設されていたが、車両限界はイギリス本国より僅かに小さいのみで、台車の交換が可能ならばニュージーランドのほぼ全路線でマーク2客車の運用が可能であった。 ニュージーランド向けの最初の車両は、1996年にトランツ・レール(Tranz Rail)と保存鉄道のメインライン・スチーム(Mainline Steam)によって導入された。このうち、トランツ・レールの車両は台車の交換以外にも両開き式引き戸の設置などの改修を受け、1999年11月15日からパーマストン・ノース - ウェリントン間を結ぶ通勤路線「キャピタル・コネクション」にて運行を開始した。 主要諸元
脚注
関連項目 |
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