ウィリアム・アフィルス
ウィリアム・フリッツ・アフィルス(William Fritz Afflis[1]、1929年6月27日 - 1991年11月10日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。インディアナ州インディアナポリス出身。ファミリーネームの "Afflis" はスペリングの通り「アフリス」が原音に近いが、本項では日本で定着している表記を使用する。 ディック・ザ・ブルーザー(Dick the Bruiser)のリングネームで活躍し、その名の通りの荒っぽいファイトスタイルから、日本では「生傷男」の異名で呼ばれた[2]。 主戦場としていたAWAとの提携のもと、本拠地のインディアナポリスにてWWAを主宰するなど、プロモーターとしても活動した[3]。 来歴シニアハイスクール時代からアメリカンフットボールで活躍し、インディアナ州ウェストラファイエットのパデュー大学などを経て、1951年にNFLのグリーンベイ・パッカーズに入団した後、1954年にプロレス入り[3]。地元のインディアナを含む中西部地区を活動拠点に、1956年1月14日にはウィスコンシン州ミルウォーキーにてルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した[4]。 ヒールのラフファイターとして殴る蹴るの喧嘩ファイトを押し通し、1957年にはWWWFの前身団体であるキャピトル・レスリング・コーポレーションに参戦[5]。11月19日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてドクター・ジェリー・グラハムと組み、アントニオ・ロッカ&エドワード・カーペンティアと対戦したが、興奮した観客が暴動を起こし[6]、最終的にはニューヨーク州のアスレチック・コミッションから追放処分を受けている(後述)[7]。 中西部地区では1957年12月13日、ウイルバー・スナイダーを下してデトロイト版のUSヘビー級王座を獲得[8]。以降、1960年代初頭にかけて、スナイダー、バーン・ガニア、カウボーイ・ボブ・エリス、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリックらを相手にタイトルを争った[8]。1963年7月15日にはハワイにてカーティス・イヤウケアを破り、ハワイ版のUSヘビー級王座も奪取している[9]。その後、AWAにて同タイプのクラッシャー・リソワスキーとタッグチームを組み、1963年8月20日にクラッシャーとのコンビでAWA世界タッグ王座を獲得した[10]。 1964年4月22日にはロサンゼルスのワールドワイド・レスリング・アソシエーツにてフレッド・ブラッシーからWWA世界ヘビー級王座を奪取[11]。同年、自身の団体ワールド・レスリング・アソシエーションをインディアナポリスに設立。ロサンゼルス版WWA王座を獲得した同日に、自らをインディアナポリス版WWAの初代世界ヘビー級王者に認定する[12]。ロサンゼルス版のWWA世界ヘビー級王座は同年7月22日にザ・デストロイヤーに敗れて失ったものの[11]、インディアナポリスではベビーフェイスの団体エース兼オーナーとして活躍し、1965年にはジョニー・バレンタインやジン・キニスキーとインディアナポリス版のWWA世界ヘビー級王座を争った[12]。 AWAでもベビーフェイスのポジションに回り、1966年11月12日にはネブラスカ州オマハにてマッドドッグ・バションを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得している[13]。クラッシャー・リソワスキーとのタッグでも、ラリー・ヘニング&ハーリー・レイス、クリス・マルコフ&アンジェロ・ポッフォ、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バション、ミツ・アラカワ&ドクター・モトなどのチームと抗争を繰り広げ、1968年12月28日にはイリノイ州シカゴにて、当時AWAとWWAの両世界タッグ王者チームだったアラカワ&モトを下し、二冠を手中にした[10][14]。 以降、1970年代全般に渡り、インディアナポリスのWWAおよび提携団体のAWAを股にかけて活躍。WWAではフラッグシップ・タイトルのWWA世界ヘビー級王座を巡り、ザ・シーク、ブラックジャック・ランザ、ブラックジャック・マリガン、バロン・フォン・ラシク、オックス・ベーカー、アーニー・ラッド、ガイ・ミッチェル、イワン・コロフらと抗争を展開[1]。NWAの総本山だったミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムにも再三出場し、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイス、ジャック・ブリスコ、テリー・ファンクら歴代のNWA世界ヘビー級王者に挑戦した[1]。 ![]() WWWFから参戦してきたアンドレ・ザ・ジャイアントやブルーノ・サンマルチノともタッグを組み、1973年7月21日にサンマルチノをパートナーにバロン・フォン・ラシク&アーニー・ラッドからWWA世界タッグ王座を奪取、翌1974年にはバリアント・ブラザーズとタイトルを争った[14]。盟友クラッシャー・リソワスキーとのコンビではザ・ブラックジャックスやテキサス・アウトローズなどの強豪チームとの抗争を経て、1975年8月16日にシカゴにてニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスを破り、AWA世界タッグ王座に返り咲いている[10]。同年9月20日にはインディアナポリスにてジャック・グレイ&ザリノフ・ルブーフのザ・リージョネアーズからWWA世界タッグ王座も奪取、再び二冠王となり、WWA王座は翌1976年3月13日にオックス・ベーカー&チャック・オコーナー、AWA王座は同年7月23日にブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンに敗れるまで保持した[10][14]。 その後はシングルでの活動に注力し、NWAセントルイス地区では1978年7月14日にディック・マードックからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取[15]。AWAではニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦し、本拠地のWWAでは1979年から1980年にかけて、同じく「ブルーザー」をリングネームとしていたキングコング・ブロディとWWA世界ヘビー級王座を賭けた抗争を展開した[12][16]。1982年1月1日には、セントルイス地区のプロモーターだったサム・マソニックの引退興行にてケン・パテラを破り、NWAミズーリ・ヘビー級王座への通算3度目の戴冠を果たしている[15]。同年12月18日にはシカゴにて、当時AWAで大ブレイク中だったハルク・ホーガンともタッグを組んだ[17]。 1983年からはセミリタイアの状態となるも、レジェンドとしてAWAのビッグマッチに登場。1984年にはクラッシャー・リソワスキーと久々にコンビを組み、3月4日にシカゴにてニック・ボックウィンクル&スタン・ハンセン、8月19日にはミルウォーキーにてロード・ウォリアーズと対戦[18]。翌1985年はファビュラス・フリーバーズとも度々対戦し[19]、9月28日にシカゴのコミスキー・パークで開催された "AWA SuperClash" ではクラッシャー&バロン・フォン・ラシクと組み、イワン・コロフ、ニキタ・コロフ、クラッシャー・クルスチェフのザ・ラシアンズとの6人タッグマッチに出場した[20]。 同年に現役を引退し[3]、プロモーターとしてWWAの運営に専念。グレート・ウォージョことグレッグ・ウォジョコウスキーやスコット・スタイナーなどを輩出したが、ビンス・マクマホン・ジュニア体制下のWWFによる全米侵攻の余波で観客動員が落ち込み、1980年代後半にWWAは活動を停止した[21]。その後はWCWにてタレント・エージェントとなって活動[3]。1990年12月16日のスターケードでは、スティング対ブラック・スコーピオンのスチール・ケージ・マッチにてスペシャル・ゲスト・レフェリーを務めた[22]。 1991年11月10日、食道の血管破裂により死去[3]。62歳没。 日本での活躍1965年11月、日本プロレスに初来日[24]。11月24日に大阪府立体育館にて、力道山の死後、空位となっていたインターナショナル・ヘビー級王座をジャイアント馬場と争った[25]。当時すでにアメリカではベビーフェイスに転向していたが、日本ではヒールのスタイルを押し通し、この王座決定戦でも3本勝負のうち2本で反則負けを取られ、馬場がストレート勝ちで第3代王者となるも、壮絶な暴れっぷりで馬場を蹂躙した[2]。3日後の11月27日には、蔵前国技館にて馬場の初防衛戦の相手を務めている(結果は1-1のタイスコアの後、両者リングアウトで馬場が防衛)[2]。以降、馬場の同王座には1968年2月28日に東京都体育館、1969年8月12日に札幌中島スポーツセンターにて挑戦した[26]。 タッグでは1968年2月26日、大阪にてアメリカでの宿敵ハーリー・レイスと組み、馬場&アントニオ猪木のBI砲が保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦[27]。1969年8月11日には札幌にて、盟友クラッシャー・リソワスキーとのコンビでBI砲を破り、同王座を奪取している[28]。2日後の13日に奪還されたものの、この来日時がクラッシャーと組んでの「ブルクラ・コンビ」の日本初参戦であり、大きなインパクトを残した[29]。翌14日には広島県立体育館にてマリオ・ミラノと組み、猪木&吉村道明が保持していたアジアタッグ王座にも挑戦している[30]。 1972年11月にはAWAとの提携ルートでクラッシャーと共に国際プロレスに来日し、11月24日に岡山武道館にてストロング小林&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦[31]。11月27日には愛知県体育館にて、小林&草津を相手に日本初の金網タッグデスマッチを行ったが、試合方式を「金網から先に脱出した方が勝ち」というアメリカ式のエスケープ・ルールと誤認、ダウンした小林と草津を残して場外に脱出し、そのまま控室に戻り無効試合になったため、怒った観客が暴動を起こし機動隊が出動するという騒ぎとなった[32]。この来日時、ブルーザーとクラッシャーは「WWA世界タッグ王者チーム」の触れ込みで参戦しており、この金網タッグデスマッチは小林と草津の挑戦を受けたWWA世界タッグ王座の防衛戦として行われ、11月30日には茨城県スポーツセンターにて、決着戦としてIWAとWWAの両タッグ王座のダブルタイトルマッチが組まれたが、この時点での実際のWWA世界タッグ王者チームはザ・ブラックジャックスであり、ブルーザーとクラッシャーはタイトルを保持していなかった[14](11月29日には東京都体育館にて、小林&マイティ井上との防衛戦も行われている)[31]。 1975年4月に全日本プロレスに初登場し、4月10日に宮城県スポーツセンターにて馬場のPWFヘビー級王座に挑戦[33]、両者の日本での久々の対戦が実現した(この来日前の2月6日、アメリカのカンザスシティでも馬場のPWF王座に挑戦している)[26]。AWAとWWAの両世界タッグ王座戴冠中の翌1976年1月にはクラッシャーとのコンビで全日本プロレスに再来日、1月26日に愛知県体育館、29日に東京都体育館にて、馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に連続挑戦している[34]。 1980年3月、国際プロレスに久々に来日。日本プロレス以来となる大木金太郎との対戦が注目され、同時参戦していたモンゴリアン・ストンパーと組んでのラッシャー木村&大木とのタッグマッチや、「和製ブルーザー」と呼ばれたアニマル浜口とのシングルマッチも行われた[35]。これが最後の来日となり、日本マットには日本プロレスに3回、全日本プロレスと国際プロレスに各2回、通算7回参戦したが、いずれも1週間程度の特別参加という大物扱いだった[2]。 逸話![]() 生傷男の異名そのままに、「酒場の用心棒をしていた」などという定番的なフィクションも含め、数々の武勇伝を持つ[29]。
得意技
獲得タイトル
脚注
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