ゴドフリー・ネラー による肖像画、1686年[ 1] 。
第5代ディグビー男爵 ウィリアム・ディグビー (英語 : William Digby, 5th Baron Digby 、1662年 2月20日 洗礼 – 1752年 11月29日 )は、アイルランド貴族 、イングランド の政治家。1689年から1698年までイングランド庶民院 議員を務めた[ 2] 。自領のコーゾル (英語版 ) が国教忌避者の避難所として知られたほか、債務者監獄 に投獄された囚人の債務返済を援助し、妻とともにシェアボーン で学校を設立するなど慈善活動で知られている[ 1] 。
生涯
生い立ち
第2代ディグビー男爵キルデア・ディグビー (1661年7月11日没)と妻メアリー(Mary 、旧姓ガーディナー(Gardiner )、1692年12月23日没、ロバート・ガーディナーの娘)の息子として、コーゾル (英語版 ) で生まれ[ 2] 、1662年2月20日に同地で洗礼を受けた[ 1] 。父の死後に生まれたとされる[ 1] 。
家庭教師からの教育を受けた後、1677年にウィンチェスター・カレッジ に入学した[ 1] 。1679年5月16日にオックスフォード大学 モードリン・カレッジ に進学、1681年7月5日にB.A. の学位を修得した[ 2] [ 3] 。1708年7月13日、D.C.L. (英語版 ) の学位を授与された[ 3] 。
政界にて
1677年12月29日に兄ロバート が、1686年1月19日に兄サイモン が死去すると、ディグビー男爵 位を継承した[ 2] 。同1686年、ウォリックシャー統監 (英語版 ) の第4代ノーサンプトン伯爵ジョージ・コンプトン によりウォリックシャー副統監に任命され、1687年に一旦解任されるものの名誉革命 の後に復帰した[ 4] 。
兄サイモンはウォリック選挙区 (英語版 ) の現職議員だったが、その死去直後に補欠選挙は行われず、ウィリアムは1689年イングランド総選挙 で家族の地盤を継承し、有力者第5代ブルック男爵フルク・グレヴィル の支持も受けて[ 注釈 1] 無投票で当選した[ 7] [ 4] 。議会ではトーリー党 の一員として活動し、戴冠宣誓文の起草や新しい忠誠宣誓 (英語版 ) と国王至上の誓い の審議に関わるなど庶民院委員会への任命が28件確認されている[ 4] 。
1689年にジェームズ2世 が招集したアイルランド議会 に出席せず、同年5月7日にアイルランド議会により私権剥奪 された[ 2] 。その後、ディグビー男爵はウィリアム3世 に対する忠誠宣誓 (英語版 ) に応じた[ 6] 。
1690年イングランド総選挙 ではリチャード・ブース(Richard Booth )、ジェームズ・ブース(James Booth )父子を下して再選した[ 5] 。1694年9月5日にウォリック で大火 (英語版 ) があり、ディグビーが1695年初に私法案を可決させてウォリック再建委員会を設立したため、1695年イングランド総選挙 では当然の帰結として再選したが[ 5] 、ウィリアム3世暗殺未遂事件 を受けて1696年連合 (英語版 ) への加入が要求されると、ディグビーは拒否して、同年6月15日にはウォリックシャー副統監からも辞任した[ 6] 。1690年より務めていたウォリックシャー治安判事 も1696年に辞任した[ 4] 。同年11月17日、暗殺未遂事件の首謀者第3代準男爵サー・ジョン・フェンウィック (英語版 ) の私権剥奪への反対演説を行い、25日には反対票を投じた[ 6] 。連合加入の拒否により1698年イングランド総選挙 では再選を目指さず、議員を退任した[ 5] 。同様の理由によりブルック男爵からの支持も失ったとされる[ 6] 。1698年9月18日に遠戚にあたる第3代ブリストル伯爵ジョン・ディグビー (英語版 ) が死去すると、シェアボーン城 (英語版 ) などドーセット での領地を継承した[ 4] [ 8] 。
以降息子ロバート とエドワード (2人ともに庶民院議員を務めた)、友人エドワード・ニコラス(Edward Nicholas 、シャフツベリ選挙区 (英語版 ) 選出の庶民院議員)を通じて政界へのパイプを維持したが、ディグビー男爵自身が再度議員を務めることはなく[ 1] 、1702年から1703年にかけてオックスフォード大学選挙区 (英語版 ) からの出馬を第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチ より打診されたが、辞退している[ 9] 。
1714年にジョージ1世 が即位したときに忠誠宣誓を拒否し[ 6] 、1721年のアタベリー陰謀事件 では関与はなくても、少なくとも計画を知っていたとされる[ 1] 。
引退生活
ディグビー男爵はイングランド国教会 を離脱しなかったが、1680年代より国教忌避 の聖職者ジョン・ケトルウェル (英語版 ) を援助しており、その影響もあって自領のコーゾル (英語版 ) は国教忌避者の避難所として知られるようになった[ 1] 。ほかにもトマス・ブレイ (英語版 ) への援助、キリスト教知識普及協会 (英語版 ) への支持が知られ[ 1] 、1701年にはイギリス福音伝道会 に入会した[ 4] 。
慈善事業にも着手し、度々債務者監獄 のフリート監獄 (英語版 ) を訪れて囚人の債務を返済したほか[ 1] 、1729年から1752年に死去するまで聖バーソロミュー病院 理事を務めた[ 4] 。妻ジェーンもシェアボーン で学校を設立しており、1733年にジェーンが死去するとディグビー男爵が引き継いだ[ 1] 。同年、アメリカにおけるジョージア植民地設立のための信託 (英語版 ) よりジョージア植民地 の信託委員会(Common Council )の委員に任命された[ 4] 。
文学ではアレキサンダー・ポープ のパトロン (後援者)になり[ 4] 、ポープは1729年9月の手紙で「あなたの家族はこの国でほぼ失われた、古き貴族の高潔さの好例である」(your whole family is an example of what is almost now lost in this Nation, the Integrity of ancient Nobility )とディグビーを称えている[ 1] 。
1752年11月29日に死去[ 2] 、シェアボーン寺院 (英語版 ) で埋葬された[ 4] 。孫エドワード が爵位を継承した[ 2] 。遺言状では35,000ポンドを子孫に残し、100ポンドをウォリックシャーの債務者監獄に投獄されていた囚人に寄付した[ 6] 。
家族
1686年5月22日、ジェーン・ノエル(Jane Noel 、1667年ごろ – 1733年9月10日、初代ゲインズバラ伯爵エドワード・ノエル (英語版 ) の娘)と結婚[ 2] 、4男8女をもうけた[ 10] [ 11] 。
注釈
出典
^ a b c d e f g h i j k l m Kilburn, Matthew (3 October 2013) [2004]. “Digby, William, fifth Baron Digby of Geashill”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/7634 . (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 354– 355.
^ a b c d e f g Foster, Joseph , ed. (1891). “Dabbe-Dirkin” . Alumni Oxonienses 1500-1714 (英語). Oxford: University of Oxford. pp. 366– 405.
^ a b c d e f g h i j Mimardière, A. M. (1983). “DIGBY, William, 5th Baron Digby of Geashill [I] (c.1662-1752), of Coleshill, Warws.” . In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月6日閲覧 .
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^ a b c d e f g Hanham, Andrew A. (2002). “DIGBY, William, 5th Baron Digby of Geashill [I] (1661-1752), of Coleshill, Warws.; Sherborne, Dorset, and Southampton Square, Mdx.” . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月6日閲覧 .
^ Mimardière, A. M.; Moseley, Virginia C.D. (1983). “Warwick” . In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月6日閲覧 .
^ Ferris, John. P. (1983). “DIGBY, John, Lord Digby (1634-98), of Sherborne Castle, Dorset.” . In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月6日閲覧 .
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^ a b c d e f g Debrett, John (1820). Debrett's Peerage of England, Scotland, and Ireland (英語). Vol. I. London. p. 306.
^ Henderson, Thomas Finlayson (1888). “Digby, William” . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 15. London: Smith, Elder & Co . p. 68.
^ Matthews, Shirley (1970). “DIGBY, Hon. Robert (?1692-1726), of Coleshill, Warws.” . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月6日閲覧 .
^ Matthews, Shirley (1970). “DIGBY, Hon. Edward (c.1693-1746), of Wandsworth, Surr.” . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月6日閲覧 .
^ Cokayne, George Edward , ed. (1904). The Complete Baronetage (1665–1707) (英語). Vol. 4. Exeter: William Pollard & Co. p. 190.
^ Thomas, Peter D.G. (1970). “MACKWORTH, Herbert (1687-1765), of Gnoll, Glam.” . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月6日閲覧 .
外部リンク