ウェストミンスター宮殿
ウェストミンスター宮殿(ウェストミンスターきゅうでん、英語:Palace of Westminster)は、イギリスのロンドン中心部、テムズ川河畔のウェストミンスターに存在する宮殿。現在は英国議会が議事堂として使用している。併設されている時計塔(ビッグ・ベン)とともにロンドンを代表する景色として挙げられる。所在地はロンドンのミルバンク。道路を挟んで西側にはウェストミンスター寺院が建つ。時計塔の鐘の音はウェストミンスターの鐘として知られている。 歴史![]() ![]() The Burning of the Houses of Lords and Commons (1835年) ![]() ヴィクトリア・タワー(左) ウェストミンスター宮殿のおかれているテムズ川河畔は中世を通して戦略上の要衝であった。すくなくともアングロ・サクソンの時代には既にこの地に何らかの建物が建設されていた。ソーニー・アイランドとして知られるイングランド中世にはカヌート王によって初めて宮殿として用いられるようになり、サクソン王朝の最後から2代前の王エドワード懺悔王はシティ・オブ・ロンドンの西、ソーニー・アイランドに宮殿とウェストミンスター寺院を建設した。時代が下るとこの周辺の地区はウェストミンスター(Westminster)と呼称されるようになった。これは西方の修道院(West Monastery)の省略形であると考えられている。1066年のノルマン・コンクエスト時にはウィリアム1世は一時ロンドン塔を自身の住居として定めたが、後にウェストミンスターへと移っている。これらサクソンやウィリアム1世により使用された建築物は現在残っていない。宮殿における最古の部分は次代のウィリアム2世により建造されたものである。 中世後期をとおしてウェストミンスター宮殿は王の住居であり続けた。イングランド政府が成立すると、公共施設の多くはウェストミンスター周辺に建設されている。議会の前身であるキュリア・レジス(Curia Regis, 枢密院)はウェストミンスター・ホールに設けられた。1295年に設立された初めてのイングランド議会である模範議会も宮殿内で開催されている。このようにほぼ全ての議会は王の居住する宮殿内で開催されたが、何らかの理由により他の場所に設けられたことが数例ある。
1834年10月16日に発生した宮殿の火災によって宮殿の大半は焼失した[1]。ウェストミンスター・ホールおよびジュエル・タワー、聖スティーヴン礼拝堂の地下室、回廊のみが焼失を免れた。宮殿の再建を協議する王立の委員会が設けられ、ゴシックまたは新古典主義のいずれかのデザインで建設することを決定した。古典様式を好む人々はゴシックの粗野さは議事堂に似合わないと主張したが、キリスト教に基づいており好ましいとするオーガスタス・ピュージンを含む一派の計画が採用された。 1836年に委員会は97の計画案の中からチャールズ・バリーの設計したゴシック・リヴァイヴァル様式のデザインを採用した[4]。1840年に礎石が据えられ、貴族院議事堂は1847年に、庶民院議事堂は1852年に完成した。その後建物の主要部分は1860年に完成した。この年にバリーが亡くなった。さらに工事は1867年まで続けられた。 第二次世界大戦中の、1941年にドイツ軍の爆撃によって庶民院が損傷を受け使用不能となったため、貴族院に移転し、貴族院は王室用の部屋を使用した。戦後、ジャイルズ・ギルバート・スコットの設計によって修復が行われ、元のチャールズ・バリーの設計を可能な限り残して1950年に完成した。 2017年7月、日本工営は現地グループ会社であるBDP社(本社マンチェスター市)が、宮殿の大改修事業の建築設計業務をイギリス議会から受託したと発表した[5]。 2018年2月2日、老朽化し雨漏りや絡み合った配線や蒸気管による火災の危険、さらにアスベスト問題などの観点から両院ともタイミングを見計らって引き払い、下院はホワイトホールのリッチモンド・ハウス、上院はパーラメント・スクエアに面したエリザベス2世センターに移転することで合意した。移転は早くても2025年になる[6]。 構造![]() 北端:時計塔、南西端:ヴィクトリア・タワー、西北部:ウェストミンスターホール 石と鋳鉄
設計者ヴィクトリア王朝期の1834年の火災により、木造であるウェストミンスター・ホールを除くほとんどが焼失してしまったため、これを機にイギリス政府はコンペ形式によって、新国会議事堂の設計を行うことになった。 構成テムズ川の西岸に面しながら、それと平行になるように建物全体が南北に貫かれている。内部構成については、ロイヤル・ギャラリーと上院議場をその南側に、北側には下院議場が配置されている。また、両院議長席は公共の場である中央ロビーを境に向かい合って対峙するように配置されている。このような構成は、国民や国家における両院の憲法上の役割を象徴している。 外観外観はテムズ川対岸からの眺めに重点をおきながら構成されており、議事堂としての威厳を与えるため、河に面した水平で長大な左右対称のファサードをとり、その両端を後方から右側にビッグ・ベンを、そして左側にビクトリアタワーを置くことによって全体のバランスをとっている。また、その2つの塔のほか、中央部やところどころに建っている小塔の持つシルエットによって、垂直方向に対しても強調されている。 つまり、古典主義的な建築様式によるものである。そのことの証拠に、ピュージンの弟子であったフェリーによると「閣下、すべてギリシア様式です。古典様式に従った躯体に、チューダーの細部を加えました」[9]とピュージン自身が述べている。チューダーとはテューダー様式という中世末期からルネサンスへの過渡期に渡る16世紀前半のイギリスにおける、垂直様式であるゴシック建築様式を残しつつ、古典的モティーフを採用した装飾が細部になされた建築様式である。 世界遺産登録基準この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
ギャラリー
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク |
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