エドワード・エリオット (1618年生の政治家)エドワード・エリオット(英語: Edward Eliot、1618年7月9日 – 1710年?)は、イングランド王国の政治家、コーンウォールの地主。イングランド王チャールズ1世に対する野党活動で知られるサー・ジョン・エリオットの次男であり、庶民院議員(在任:1660年、1661年 – 1679年)を務めた[1]。 生涯サー・ジョン・エリオットと妻ラディグンド(Radigund、旧姓ジェディ(Gedy/Gedie)、1628年6月13日埋葬、リチャード・ジェディの娘)の四男(兄のうち2人が早世したため、実質的には次男)として生まれ、1618年7月9日に洗礼を受けた[1][2]。1629年、ティヴァートンのグラマースクール(ブランデルズ・スクール)で教育を受けた[1]。 イングランド内戦期とイングランド共和国期では1657年から1662年までコーンウォールの治安判事を務めるなどコーンウォールの地方官職に就いた[1]。王政復古直後の1660年仮議会の選挙(1660年4月)ではローンストン選挙区(2人区)から出馬したが、当選証書(indenture)が2通あり、合計で3人の当選が宣告された[3]。庶民院はまず5月5日に証書の有効性に関する裁定を下し、エリオットとトマス・ジェーウェンの当選証書を有効とした後、選挙結果について審議したが、エリオットが票数でジョン・クロベリーに敗れていると認めたため、庶民院は6月29日にジェーウェンとクロベリーの当選を宣告した[3]。エリオットはおそらく王政復古を支持したものの[3]、この2か月に満たない在任期間では議会活動はなかった[1]。 1661年イングランド総選挙でエリオット家の懐中選挙区であるセント・ジャーマンズ選挙区から出馬して当選した[4]。2度目の議員期では1667年11月に選挙および特権委員会(Committee of Elections and Privileges)の委員に任命された記録があったが、議会活動は少なかった[1]。1679年3月イングランド総選挙で出馬せず、議員を退任した[1]。 地方官職への任命記録は1707年を最後に途絶え、遺言状が1710年6月12日に検認されたため、その間に死去したとされ、『英国議会史』では生没年を「1618-?1710」とした[1]。 家族アンナ・フォーテスキュー(Anna Fortescue、フランシス・フォーテスキューの娘)と結婚、5男3女をもうけた[2]。
出典
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